とんねるずの木梨憲武さんは現在でも多岐にわたって活躍しています。
そこで、この記事では高校時代に出会った相方・石橋貴明さんとの深い絆やデビューのきっかけ、フジテレビで数々の人気番組を手がけた日枝久さんや、港浩一さんとの関係を振り返りながら、若い頃の思い出から現在の活動までをまとめました。


目次
木梨憲武の生い立ち
木梨憲武さんは1962年に東京都世田谷区に生まれました。
そして、その2年後に妹が生まれたそうです。
木梨さんの父親は「木梨サイクル」という自転車店を、2階建て住居付き店舗で経営していました。
1階には店舗と4畳半の部屋があり、そこで木梨家の4人が暮らして、2階には他の家族が住んでいたそうです。
お風呂は外にあり、みんなで共同で使用していました。
木梨さんは2階に住んでいた家族に、仕事が忙しい父母の代わりに可愛がってもらっていたそうです。
「木梨サイクル」では、日々の仕事を両親ふたりだけでこなしていたから、年がら年中忙しく、俺たち子どもの世話は行き届かないことも多かったと思う。
それをサポートしてくれていたのが、2階に住んでいた武藤さん一家だ。
武藤のおばちゃんは、美人でやさしくて、「ノリちゃん、ノリちゃん」といって、よく俺の世話をやいてくれた。
おじちゃんもまた、お風呂にいれてくれたり、おんぶをしてくれたりして、とてもかわいがってくれたのをよく覚えている。
何よりも武藤さんの家には、2歳年上の貴ちゃんがいて、俺にとっては大好きな姉のような存在だった。いつもそばにいたくて後をついて回った。
木梨さんは、この狭い環境で育ったにもかかわらず、「最高に楽しかった」と振り返っています。
この経験から、木梨さんは「狭い」「不便だ」などのネガティブな言葉を使わない性格になったそうです。
木梨憲武さんの母親は、結婚するまでは地元の旅館で仲居をしていたそうで、明るく気さくな性格でした。
顔を見るだけで元気がもらえて、ときどき愚痴なんかも聞いてくれる商店街の親切なおばさんとして親しまれていたようです。
おふくろの人柄のおかげもあり、商店街の店主やお客さん、ご近所さんが立ち寄っておしゃべりをしたり、お茶を飲んだりする場所になっていた木梨サイクル。
オレの今の社交性と行動力は、そんなおふくろのDNAなのだろう。
子供の頃から、いつもキョロキョロとあたりを見回しては、楽しそうなことはないか探して、何かあれば親の制止も聞かずに、すっ飛んでいったらしい。
木梨さんが小学校に上がる頃に、2階の家族が引っ越すことになり、木梨家が全てを使えるようになりました。
4畳半の部屋は木梨さんの部屋となり、初めてベッド(ビールケースの上にベニヤ板を置いたもの)で寝ることができたそうです。
木梨憲武のモノマネの原点
木梨憲武さんは、とんねるずとしてデビューする以前から、素人が出演するモノマネ番組で優勝したりしていました。
そんなモノマネの原点は、8歳の頃の「大阪万博」道中のワンマンショーからでした。
2階住にんでいた家族と大阪万博に行くことになり、大阪までの8時間の道中で披露されたそうです。
当時8歳だった俺は、武藤のおじちゃんが運転する車で、大阪へと向かった。
車に乗っていたのは、武藤のおばちゃんとおふくろ、貴ちゃん、俺、妹の佐和子。
親父は仕事で留守番だった。久しぶりのドライブに俺は高ぶり、いつも物静かな武藤のおじちゃんも、なんとなくウキウキしているように見えたっけ。
大阪までのドライブは、なんと8時間以上もかかったから。楽しみにしていた万博行とはいえ、俺たちはすこし退屈してきた。
何か盛り上がる余興はないかという話になったとき、佐和子がこう切り出した。
「おにいちゃん、モノマネができるよ」
俺は当時、テレビの前でよく、スターのモノマネや野球の実況放送のモノマネをしていたんだが、佐和子だけがそれを見ていたのだ。
「ホント?ノリちゃん、やってみて」と貴ちゃん。
そういわれたらやるしかないよね。そしてここで、初の木梨憲武ワンマンショーの始まり~となるわけなんだ。
この頃から木梨さんは、将来はテレビにでるんだと決意していたそうです。

木梨憲武さんの子供時代は、毎日楽しい笑顔が絶えなかった感じですね。
さぁそれでは、木梨さんの出身校をみていきましょう。
木梨憲武・出身校は
◎世田谷区立塚戸小学校
テレビに出ると決意していた子供時代に、もう一つ熱中したのがサッカーでした。
サッカーとの出会いはこの小学校からだったようです。
木梨さんは、サッカーに夢中になるきっかけを次のように語っています。
サッカーにドハマりするきっかけになったのは、小学校5年の終わり頃かな。
同級生の遠藤くんが、「少年東京サッカースクール」に誘ってくれたから。
それは野球でいえば、リトルリーグのチームみたいなもので、遠藤君はそこのメンバーだった。
日曜日の朝、遠藤くんについて練習場になっていた明治大学のグラウンドに見学に行くと、そこでは俺と同じくらいの少年たちが、なんともカッコよくプレーしていた。
それがきっかけでサッカーに興味をもった俺はさっそく、入会させてほしいと両親に頼んだ。
親父やおふくろは、俺がやりたいといったことに反対することはなく、自由にやらせてくれていたから、俺はすぐにこのチームに入れた。
木梨さんは登下校の際や放課後、そして買い物の手伝いのときでも、毎日ボールを蹴っていたそうです。
ほんとにサッカーにのめり込んでいたんですね。
そんな木梨憲武さん、中学に入学して新たな問題に直面します。
世田谷区立千歳中学校時代
もちろん、中学校でもサッカー部に入ったのですが、小学校時代のようにいかないことに気づきました。
中学校の部活には先輩後輩という厳しく、難しい関係があったんです。
木梨憲武さんの学年(1年)は2年生より実力者が揃っていて、先輩との練習試合ではいつも勝っていたそうです。
しかし、木梨さんは持ち前のポジティブ思考で、この難しい関係を解決するために次のようなことを考えたそうです。
部活では人間関係も大切だから、選手としてのポジションはもちろん、部内での自分のポジションも決めておくべきだと、この頃から考えるようになった。
それは、幼い頃、「木梨サイクル」に立ち寄る人たちのやりとりをみていて、自然と学んだことだった。
たとえば町内には、いろいろなところに顔を出してまとめ役を任されている人もいれば、交渉事をする人、知識や人脈を頼りにされる人などがいた。
おふくろのように、落ち込んだり悩んだりしたときに話を聞いてくれるひとの存在も重要だ。
商店街の大人たちお茶をすすりお菓子をなべながら、俺はいろんなことを教えてもらっていたんだよね。
人にはそれぞれ、その人の性格や実力にあったポジションがあるんだってことも、そのときに自然と学んだんじゃないかな。
じゃあ、部内における俺の役割ってなんだろうー。
そこで導き出した答えは、できるだけ先輩との摩擦を避けて、みんなが気分よくサッカーができる環境を作るということだった。
木梨さんは、大量点差で勝つと先輩のプライドが保てないと考え、1点差で勝つように同級生たちに話して、試合をしていたそうです。
そして、中学2年でレギュラーポジションをつかみ、試合で活躍し、充実した部活動をやっていました。
そんな木梨さんが、全国高校サッカーのテレビ中継を見て、俺が行く高校はここしかない!
そんな衝撃を受けたのが帝京高校でした。
そんな帝京高校との出会いについて、次のように語っています。
順調なサッカー生活、そんな中、またも俺を高ぶらせる出来事が起こる。
それが、全国高等学校サッカー選手権大会のテレビ中継。
最高にカッコイイ高校生たちが、テレビの中で大活躍していた。
その強さから、ひときわ輝いていたのが帝京高校サッカー部のイレブンだった。
俺はこのとき、例の”根拠のない自信”のもと、人生最大の勘違いをしてしまう。
「俺の進むべき高校は、帝京以外にはない」
帝京に行けば、俺のサッカー人生は花開くに違いない、そう確信した。
いまから思えば、勘違いのスタートだけど、仕方ないじゃないか、だってサッカーナンバーワン高校の帝京だよ。
おもしろくないわけがない。おもしろいに決まってる!

帝京高等学校時代・サッカー部
帝京高校に入学しサッカー部に入部した木梨さん、なんとこの年の新入部員は130名いたそうです。
しかも、中学時代に活躍した 人も少なくなかったのだとか。
木梨憲武さんはその当時の気持ちを次のように語っています。
名門とは聞いていたが、これほどとはねー。
勘違いって恐ろしい。中学時代、部活内でちょっと活躍していただけの”井の中の蛙”だった俺は、あまりにも違うレベルにビビる・・・・。と、まあ、普通はそういう感覚になるよね。
日本中のエースが集まっているんだから。
ところが俺はビビったのもつかの間、それ以上に高ぶってしまった。
「周りに一流しかいねえ。こりゃ、すげえ」ってさ。
130人も新入部員がいて、さぞびっくりしたでしょう。
なにしろ当時の帝京高校のサッカーはホントに強かったんです。
帝京高校サッカー部の全国高校サッカー選手権の成績を1970年代から1980年代まで時系列でまとめます。
●1974年度(第53回大会):初優勝
●1975年度(第54回大会):ベスト4
●1977年度(第56回大会):優勝(2回目)木梨憲武1年
●1979年度(第58回大会):優勝(3回目)木梨憲武3年
●1980年度(第59回大会):ベスト8
●1981年度(第60回大会):ベスト8
●1982年度(第61回大会):ベスト4
●1983年度(第62回大会):優勝(4回目)
●1984年度(第63回大会):優勝(5回目)
1974年度から1984年度までの11年間で5度の全国制覇をなしとげました。
この期間、帝京は東京のみならず全国的にも強豪校へと成長したんです。
特に1980年度から1984年度までの5年間は輝かしい成績を残し、ベスト8以上の成績を毎年決めています。
この時期、帝京は全国高校サッカー界で圧倒的な強さを誇っていたと言えるでしょう。
そんな強豪サッカー部に所属していた木梨さん、同級生にはスゴイ選手がいたようです。
特に俺の世代はヤバかった。何しろ同級生には、あの名取篤や川添孝一、のちに競輪選手となる小門洋一がいた。
3人とも1年生からレギュラーで、日本高校選抜の海外遠征にも参加していた。
名取も川添も、卒業後は日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部(現浦和レッズ)で活躍したし、名取にいたっては、1985(昭和60)年に日本代表に選ばれたほどだ。
そんなスゲエ同級生たちの華麗なプレーを見られるのも楽しかった。
悔しいというより、いつも「スゲエな、中学時代から活躍していた全国の優秀選手のほとんどがここに集合している。これぞ帝京‼」ってみとれていた。
木梨さんはこんなにも優秀な選手たちの中で、ぎりぎりベンチ入りメンバーに選ばれるかどうかという位置にいたそうです。
130人もいた部員のなかから、ベンチ入りできるかどうかの位置でもスゴイことだと思います。
そして、活躍のチャンスがやってきます。
最初にチャンスが訪れたのは、1年のときで、練習試合だったけど、名将・小沼貞雄監督に指名されて後半に出場した。
ポジションは、中学時代と同じ、センターフォワード。
この試合での俺は勢いがあって、動きもシャープだった、はずだ。
なんせゴールを決めたんだから。デビュー戦としては上出来だったし、監督もほめてくれた。
この小沼監督なんですが、サッカー経験はないそうです。
1964年に体育教諭として帝京高校に赴任。
1965年からサッカー部監督に就任し、高校選手権6回、高校総体3回の計9回の全国制覇に導いたんです。
そんな監督に褒めてもらったんですから、木梨さんもうれしかったでしょう。
1年時で認めてもらったんですから、2年、3年時にはレギュラーとして活躍できていたかもしれませんが、事件を起こしてしまうんです。
木梨憲武・横丁ラーメン店事件
木梨憲武さんは新入部員130人ものライバルがいた中で、順調な出だしだったんですが、2年時にちょっとの気のゆるみが出たのでしょうか。
とんでもない事件を起こしてしまったんです。
まじめにサッカーばっかりやっていた俺も、実は1度だけ、はめを外してしまったことがある。
それは2年になったばかりの練習後、仲間たちをラーメン店で飯を食っていた時のこと、「食後の一服」とばかりにタバコに火をつけてしまったのだ。
高校生にありがちな、仲間といっしょだからできる興味本位の喫煙。
まさかばれるとは思っていなかった。
しかしその瞬間、よりによって、小沼監督が店に入ってきたのだ。
世界の動きがスローモーションのようにゆっくりとなり、血の気が引いていくのがわかった。
そして即刻、退部をいい渡されたー。
これが、かの有名な(あ、俺の人生史上ね)”横丁ラーメン店事件”だ!
本来なら、停学や退学をいい渡されてもおかしくなかったのに、退部ですませてくれたのは小沼監督の温情だったんだろうね。
2年の初めにサッカー部を退部をいい渡されて、両親にも心配をかけ泣いたそうです。
そんな木梨憲武さん、実はサッカー部に復帰しているんです。
なぜ、復帰できたのか?
木梨さんはそのことについて次のように語っています。
なんとしてもサッカー部に戻りたっかけど、100%自分が悪いから弁解の余地がない。
どうしたらいいのかー俺は中学時代からの地元の親友・深谷くんを近所の神社に呼んで、相談することにした。
そしたらなんと、一緒に謝りに行ってくれるというではないか。
なんという友情。もつべきものは深谷くんだね。
ホントいいヤツなのよ。で、彼の気が変わらないうちに、小沼監督の住む町まで二人で出かけていった。
深谷くんのおかげで、なんと小沼監督は木梨さんを許してくれたそうです。
1年生に戻ったつもりで、部室の雑用から引き受け、まじめに部活動を続けたそうです。
木梨さんは3年時に全国高校サッカー選手権大会東京予選決勝に、前半途中から後半前半まで出場することができたんですが、結果は、活躍できず監督に「む~・・」と思われてしまったようです。
それでも帝京は決勝を3対0で快勝し全国大会出場を決め、この年は全国優勝をしています。
木梨さんは、残念ながらこの全国大会のメンバー18人には選ばれませんでした。
小沼監督からは、帝京大学へのサッカー推薦をすすめられたんだけど、大学に入ってもう一度1年生からやり直す気になれなかったんだよね。
一流ばかりの中に3年間身を置いて、自分のサッカーのレベルがよくわかったし、もうやりきったという満足感もあったから、すごいヤツに限って、ハードな練習後にさらに筋トレしたりしていてさ、それでも日本サッカーリーグでは通用しないとか、そういう厳しい現実も目のあたりにして、自分の”位置”を思い知ったんだよね。
チームも仲間もサッカーも、心の底から好きだった。
でも、サッカーはここまで、切り替えの早い俺はすぐに就職を決めた。

サッカーをやり切った木梨憲武さん、いよいよ石橋貴明さんととんねるずを結成する流れになっていきます。
石橋貴明との出会い
木梨憲武さんは、帝京高校時代に石橋貴明さんと出会いました。
木梨さんはサッカー部、石橋さんは野球部で同じグランドを共有して練習していて、面識はあるものの、友人とかではなかったそうです。
そんな、石橋貴明さんについて次のように語っています。
貴明とは3年間一度も同じクラスにはならなかったけど、貴明は高校1年のときから野球部の超有名人で、その名はサッカー部にもとどろいていたから、俺は貴明のことをよく知っていた。
サッカー部も野球部もそうなんだけど、時折、先輩たちが後輩に、「なんかおもしろいことややってくれ」とふってくる。
そんなときに最高の盛り上げ役として、1年のときから活躍していたのが貴明だった。
木梨さんと石橋さんがコンビを組むにはもう少し時間がかかりました。
この当時は、一般の人がテレビ番組に出演し、有名人のモノマネを披露して優勝すると、賞金がもらえる、そんな番組がけっこうあったんです。
木梨さんは和田アキ子のモノマネなどで素人参加番組に出演し、「TVジョッキー」では第5代チャンピオンを獲得しました。
俺も翌年1月に部活を引退した音『TVジョッキー』の「ザ・チャレンジ」にひとりで出演した。
『TVジョッキー』の「ザ・チャレンジ」で、先にグランドチャンピオンになったのは、貴明だった。
俺も3週勝ってチャンピョンをかけた回まで勝ち進めたので、そのときは貴明とサッカー部で一緒だった吉野に、「ちょっと応援にきてよ」と声をかけてみた。
すると快くついてきてくれたふたり。
すでにグランドチャンピオンになっていた貴明と、貴明や俺のネタでいつも大笑いしてくれる吉野がそばにいてくれたら、場が盛り上がって百人力だと思ったんだよ。
おかげで俺も念願の第5代チャンピョン、第3代グランドチャンピオンに選ばれた。
「TVジョッキー」は土居まさるさんが司会をしていて、観客席にいた石橋貴明さんを見つけて、「石橋君は今度、ふたりでコンビを組むんだって?」とふってきたそうです。

コンビで「所ジョージのドバドバ大爆弾」に出演
高校を卒業する直前に、石橋貴明さんが木梨憲武さんに声をかけてきたそうです.
「憲武、『所ジョージのドバドバ大爆弾』て番組があるんだけど、その予選会に一緒にでない?」
1980年(昭和55)年春、高校を卒業するかしないかというタイミングで再び貴明に声をかけられた。
1979年10月から始まった『所ジョージのドバドバ大爆弾』(当時の東京12チャンネル、現テレビ東京)は、所さんが初めて司会を務めた番組だ。
素人からペアを募って、芸を披露したりゲームに参加して成功したら、最高賞金100万円が獲得できるというコーナーがあったんだよね。
おれはもちろん「出る出る出る出る」って前のめりでOKした。
貴明となら絶対にうまくいくはず。断る理由がなにもない。もう即決。
「所さんのドバドバ大爆弾」では、参加者の賞金額を会場の人たちが決めるシステムで、二人の評価は「73万」だったそうです。
この当時の高卒男性の初任給は10万円位だったので、かなりの高額です!
所さんが司会をやってた東京12チャンネルの「ドバドバ大爆弾」といえば素人時代のとんねるずの2人が出演してたことで有名#ij954 #木梨の会 #gate7 pic.twitter.com/B8H0GjRROR
— mo10fu3@白熊 (@mo10fu_3) June 15, 2021
この金額は残念ながら、その後のゲームをクリアできなかったので、ゲットすることはできなかったようですが、次々にチャンスが巡ってきます。
お笑いスター誕生に出演
「所ジョージのドバドバ大爆弾」のスタッフから次にように誘われたそうです。
「今度『お笑いスター誕生‼』という新しい番組が始まるから、石橋君と出てみない?」
見ている人は見ているということですか、二人の可能性を感じて声をかけてくれたのでしょう。
『お笑いスター誕生‼」(日本テレビ系)は、1980年4月12日から放送が開始されたお笑いオーディション番組です。
司会はルパン三世の声優として知られた山田康雄と歌手の中尾ミエさんでした。
「お笑いスター誕生!!」
貴明&憲武時代のとんねるず@retoro_mode pic.twitter.com/dSyzIhjAs2— JUNK. (@tHgInDiMdNuOr) November 10, 2020
”貴明&憲武”として出場したのですが、残念ながらこのときはグランプリ優勝は獲得できませんでした。
石橋さんと木梨さんは素人ながら、「お笑いスター誕生」に出場後、森永製菓からCM出演依頼が来たんです。
”貴明&憲武”から「とんねるず」としてデビュー
石橋貴明さんと木梨憲武さんは、「お笑いスター誕生」に出場後、森永製菓からCMの出演依頼がきたのです。
森永製菓 ドーナッチョ(1980年)
とんねるず
石橋貴明(当時19歳)
木梨憲武(当時19歳) pic.twitter.com/zty4TYe5rS— てんつく(RNメイクィーン男爵🥔) (@tittitopoppo) March 11, 2019
まさか素人の「貴明&憲武」にコマーシャルの依頼がくるなんて、思ってもみなかったから、驚いちゃってさ、すぐには信じられなかったんだよね。
で、詳しく聞いてみると、チョコレートをかけたコーンフレークをドーナツ形に固めたお菓子「ドーナッチョ」のコマーシャルだっていうわけ。
相手は大手企業だけど、万が一だまされたらどうしようー一瞬そんな不安がよぎったね。
でも、こういいうとき、貴明は本当にしっかりしている。問題があってはいけないからと、契約時には貴明の7歳年上のお兄さんに立会人をお願いしてくれた。
なんせ1980(昭和55)年のこのとき、俺も貴明も未成年だったんだから。
このときの出演料が一人30万だったそうです。
この当時の高卒の月給は月10万くらいだから、相当の額です。
最初のCMが好評で、その後の商品にも出演依頼がきて、10年以上森永製菓と契約していました。
「とんねるず」の命名者ときっかけ
「とんねるず」の命名は当時日本テレビゼネラルプロデューサーだった井原高忠さんでした。
井原さんは「とんねるず」の名前を考えてくれた方なのです。
この当時のことを木梨憲武さんは次のように語っています。
コルドンブルーに出演するにあたり、貴明&憲武じゃ呼びづらいと、井原さんがコンビ名を考えてくれたのもこの頃だったと思う。
「候補がふたつあってさ、ひとつは貴明と憲武の『T』と『N』をとって『とんまとのろま』で、もうひとつはね・・・・」
これを聞いたとき、井原さんがもうひとつの候補を言う前に、「もうひとつのほうで!」って、お願いしたい気持ちになっていた。
さすがに「とんまとのろま」はないよねぇ。
俺、のろまじゃないし。
結局、もうひとつが「とんねるず」だったから、それが新しいコンビ名になって、いまもその名前てやらせてもらってるわけ。
もし、とんまとのろまで決まっていたら、俺はいま、「のろちゃん」とか「のろさん」って呼ばれていたかも⁈アブなかったぁ。
とんねるずとしてのデビューは、コルドンブルーへの出演でした。
当時のコルドンブルーは、大人の社交場として人気の高級レストランです。
海外からの大物ゲストをもてなす場としても有名な場所でした。
まだ未成年のとんねるずがコルドンブルーのステージに立てたのは、「お笑いスター誕生」で知り合った「おぼん・こぼん」さんが推薦してくれたからだそうです。
とんねるず結成前にアマチュアで貴明&憲武でお笑いスター誕生に挑戦中。おぼんこぼんの口利きで赤坂コルドンブルーに出演していた頃。#とんねるず
#お笑いスター誕生 pic.twitter.com/uKSFiIodiH— 昭和の芸能人 有名人 (@shouwanogeinou) January 27, 2020
とんねるずは森永製菓のCM料30万と、コルドンブルーの月給15万で、生活には苦労はなかったようです。
運がいいのか、実力なのか、とんねるずには今の芸人さんたちのような若手時代の苦労話はありません。
しかし、そんなに人生はうまくいかないものです。
コルドンブルー4ヵ月でクビ
ただ、コルドンブルーへの出演は4か月でクビになってしまいました。
未成年の二人が演じるモノマネや井原さんに言われ習った、歌やジャズダンスなどを披露したんだが、全然受けなかったそうです。
何よりいちばんの問題は、俺たちのステージがまったくウケないこと。
男性客に連れられて若い女性が来ることもたまにはあったけど、客層はほとんど、ステータスの高い大人の男女。
いま考えれば、こういう店で、10代、20代をターゲットにした俺たちの部室芸がウケるはずもなかった。
もちろんモノマネだけじゃなくて、プロの作家につくってもらったコントなんかも披露したんだけど、まったく相手にされなかった・・・・。
お客さんにまるっきり無視された状態でステージに立っていたんだから、辛かったんでしょう。
とうとう、石橋貴明さんが切れちゃいました。
客席に向かって「おい、ちゃんと聞けよ‼」とどなってしまいました。
これが原因でコルドンブルーは辞めることになったようです。
石橋貴明さんの性格がよくあらわれたエピソードでした。
コルドンブルークビ後に本領発揮!
とんねるずはコルドンブルーをクビになってから、新宿中央公園の隅のベンチでネタを考えて過ごしていたそうです。
そんなときに、声をかけてくれたのが、コルドンブルー時代のダンスの先生・小井戸秀宅さんのマネージャー・ヒロキさんでした。
「若者が来る店のほうが、お前たちにはやりやすいんじゃないか」と、ヒロキさんが紹介してくれたのは、泥んこプロレスなんかをやっていた新宿のショーパブだった。
さっそくステージに立たせてもらうと、見事にウケたね~。
そもそも、若いお客さんたちはテレビで見て俺たちを知ってくれていた。
とんねずはその後歌舞伎町のニューハーフパブ「黒鳥の湖」のステージにも立って、笑いをとっていたそうです。
そんなときに「お笑いスター誕生」のスタッフからもう一度チャレンジしてみない?そう連絡があったそうです。
”貴明&憲武”の名前で出場した素人時代と違うのは、今回は「とんねるず」というコンビ名でプロとして出演したことです。
そして、今回はとんねるずはグランドチャンピオンになりました。
10月22日はとんねるずの石橋貴明さんのお誕生日ですね🤗🎂🎉お笑いスター誕生グランプリ🎉🎂とんねるず 石橋貴明 木梨憲武🎂🎉#石橋貴明#木梨憲武 pic.twitter.com/v5MQ7PzTiY
— カリメロ (@IoEQ6nRrDPmHYz7) October 22, 2024
この番組でも優勝!ここから「とんねるず」として大ブレークしていきました。
20代前半で超人気コンビとして、テレビ界を席巻していったんです。
とんねるず・フジテレビの番組で高視聴率!
とんねるずは80年代から90年代にかけて圧倒的な人気でテレビ業界を席巻しました。
デビュー当時は日本テレビの出演が多かったのですが、その後フジテレビがメインになり活躍しました。
フジテレビでは、「オールナイトフジ」「夕焼けにゃんにゃん」、日本放送で「とんねるずのオールナイトニッポン」などに出演して、若者に人気が出てきました。
この時に知り合ったのが、フジテレビの石田弘さんや港浩一さん、秋元康さんです。
とんねるずは、プロデューサの石田さん、ディレクターの港浩一さんで、バラエティー番組を考えていたんです。
「みなさんのおかげです」の放映で大ブレーク!
人気番組として長年放映されてきた「みなさんのおかげです」は石橋貴明さんが当時の編成局長、日枝久(現フジサンケイグループ会長)に直談判して実現したそうです。
当時の俺たちは、「オールナイトフジ」「夕やけニャンニャン」(いずれもフジテレビ系)「とんねるずのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)などで知名度を上げているときで、”若者のカリスマ”なんて言われているときだった。
だけど、貴明はそれで満足できなかったんだろうな。
さらに上を目指していたみたいだった。
当時、フジテレビの取締役編成局長だった日枝久さん(後にフジテレビジョン代表取締会長などを歴任)のところにひとりで出向いて、「ゴールデンタイムの2時間番組をください。視聴率30%とってみせます」って直談判したんだ。
このとき、貴明は24歳。
「本当だろうな。とれなかったらどうする」
という日枝さんの凄味にも屈しなかったって聞いた。
ハッタリでも、本気でも、ここまでできるヤツはなかなかいないと思う。

【木梨憲武】現在の活動
木梨憲武さんは、2025年現在、アーティストとしての活動を精力的に続けています。
そんな木梨さんの最近の主な活動をまとめました。
アート展
木梨憲武さんの3度目となる全国巡回展「『木梨憲武展-TOUCH』 SERENDIPITY-意味ある偶然」が2025年から2027年にかけて開催されます。
◎初回は2025年7月19日から8月31日まで大阪のグランフロント大阪で開催します。
◎続いて2025年9月から10月にかけて石川県の金沢21世紀美術館で開催予定です。
そして!3度目となる全国巡回展「『木梨憲武展-TOUCH』SERENDIPITY-意味ある偶然」が2025年から2027年まで開催!#木梨憲武展 @kinashiten https://t.co/KxJzSBYv9g
— TOKYO FM「JUMP UP MELODIES」 (@48staff) December 13, 2024
この展覧会では、木梨さんの特徴である自由な表現と鮮やかな色彩を用いた作品に加え、新たな手法を用いた新作も登場する予定です。
ファンクラブ活動
木梨さんは自身のオフィシャルサイト&ファンクラブ「木梨の会員」を通じて、ファンとの交流を続けています。
2025年1月1日には、お正月の手書きメッセージを公開しました。
これらの活動から、木梨憲武さんは芸能活動とアーティストとしての活動を両立させながら、精力的に活動を続けていることがわかります。
音楽活動と新作リリース
木梨憲武さんは2024年から2025年にかけて、音楽活動を精力的に展開しています。
新作アルバム『木梨ソウル』
CKスタッフです!
木梨憲武さんがお届けする
待望の3rdアルバム『木梨ソウル』収録「伝えなくちゃ feat. AI, Crystal Kay, DOUBLE, 福原みほ, Full Of Harmony, 林 和希, JAY‘ED, 松下洸平, Mhiro, 露崎春女」に
CKが参加❤️🔥要チェックです☑️
【予約URL】10月30日リリースhttps://t.co/btbh2LgKri pic.twitter.com/rUXJqyrQy5— Crystal Kay (@CKAY26) September 7, 2024
2024年10月30日に、木梨憲武さんの3rdアルバム『木梨ソウル』がリリースされました。このアルバムは次のような特徴を持っています。
【全10曲収録】
ソウル、ファンク、ヒップホップ、R&B、レゲエなど幅広いジャンルの楽曲を収録
豪華アーティストが作詞、作曲、フィーチャリングで参加
ライブイベント『木梨ソウル・ザ・ライブ』
2025年2月7日に、Zepp DiverCity(TOKYO)で『木梨ソウル・ザ・ライブ』が開催されます。
木梨憲武がAI、DOUBLEらゲストと一夜限りのプレミアムライブ開催「遊んでもらいながら、またライブやりたい」 | WEBザテレビジョン
2025/02/12 12:00
3rdアルバム『木梨ソウル』を基盤とした「木梨ソウル・ザ・ライブ」を2月7日、Zepp DiverCity(Tokyo)で開催。
https://t.co/aVUaA0k9Z9— mer (@plume178) February 12, 2025
木梨ソウル・ザ・ライブの特徴は
新アルバム『木梨ソウル』を基盤としたライブです。
豪華アーティストとの共演(SWAYやAIの出演が決定)
ソウル、ファンク、ヒップホップ、R&B、レゲエなど幅広いジャンルの音楽を演奏
新番組『木梨レコード』
2024年12月21日から、ABEMAで新番組『木梨レコード』が開始されました。
この番組では、木梨憲武さんが”ポツンと佇むレコード店”をオープン!
ヒップホップ界の”アニキ”たちと生バンドセッションを行ったり、世界に1枚だけのレコードを制作したりしていきます。
木梨憲武さんは、この番組を通じて様々な世代のミュージシャンとの交流を楽しみにしており、新たな音楽的挑戦を続けています。
テレビ出演の現状
木梨さんは2025年も引き続きテレビ番組に多数出演しています。
2025年1月2日:テレビ朝日「夢対決2025 とんねるずのスポーツ王は俺だ!!」に出演
2025年1月5日:フジテレビ「憲武・ヒロミの新春オールスター誰がイチバン上手いんだ?最強ゴルフトーナメント」に出演
木梨憲武・2025年出演CM
木梨憲武さんは、2025年にメモリードの新サービス「自由に家族葬」のCMキャラクターとして出演しています。
このCMは、家族葬をさらに自由に楽しむことをテーマにしており、木梨さんのユニークな視点が反映されています。
CMには「メモ」篇、「釣り」篇、「おさんぽ」篇の3本があり、それぞれ木梨さんが日常の中でお葬式のテーマや演出を考える様子が描かれています。
例えば、「釣り」篇では、波止場で音楽を流しながら釣りをしながらお葬式について考えるシーンがあります。
木梨憲武の交友関係
木梨憲武さんは、芸能界で幅広い交友関係を持つことで知られています。特に親密な関係にある人物として、藤井フミヤさんとヒロミさんが挙げられます。
この3人は30年以上にわたる親友関係を築いており、1980年代のバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげです」での共演がきっかけでした。
親友との絆
木梨さん、藤井さん、ヒロミさんの3人は、単なる業界内の知り合い以上の存在で、長年にわたる深い友情を育んでいます。
彼らは互いの才能を認め合い、プライベートでも親交を深めてきました。
●家族ぐるみの付き合い
●年に数回、50〜100人規模のパーティーを開催
●互いの子供の成長を見守る関係
幅広い交友関係
木梨さんの交友関係は芸能界にとどまらず、様々な分野の著名人にまで及んでいます。
芸能人との交流
水谷豊
北島三郎
所ジョージ
佐藤浩市
高橋克実
中井貴一
江口洋介
鈴木京香
他分野の著名人
武豊(競馬騎手)
石川遼(ゴルファー)
坂本勇人(野球選手)
人脈構築のコツ
木梨さんの広範な人脈は、彼の人柄とユーモアに起因しています。
1. 自然体で親しみやすい性格
2. 人を惹きつけるユーモアのセンス
3. 初対面でも打ち解けやすい特技
4. 遊び心あふれる性格
これらの特徴により、木梨さんは年下の芸能人だけでなく、大先輩の著名人とも容易に打ち解けることができます。
木梨憲武さんの交友関係は、単なる名前のリストではなく、彼の温かい人間性と真の絆に基づいた豊かなネットワークとなっています。
この広範な人脈は、彼のキャリアを通じて築かれた、芸能界における貴重な資産と言えるでしょう。
木梨憲武の芸人としての魅力
木梨憲武さんは、多彩な才能と独特の芸風を持つ芸人として知られています。彼の魅力は以下のような特徴にあります。
多才な芸能活動
木梨さんは、お笑いタレントとしてだけでなく、歌手、アーティスト、俳優、司会者としても活躍しています。
この多様な活動は、彼の芸能界での存在感を高めています。
コント力の高さ
木梨さんのコント能力は非常に高く評価されています。全芸人の中でもトップクラスのコント力を持ち、特に役を面白く演じる能力が際立っています。
彼の演技は、コントの中で最も笑いを誘う要素となっていることが多いです。
独特のボケとツッコミスタイル
木梨さんのお笑いスタイルの特徴は、他者や周りの小道具を巧みに利用して笑いを取ることです。
この手法は、時にリスクを伴いますが、ハマった時の効果は絶大です。
エンターテイナーとしての才能
木梨さんは、エンターテイナーとしての能力が非常に高く評価されています。
彼の多彩な才能と独特の芸風は、観客を楽しませる上で大きな強みとなっています。
パロディーの達人
パロディーコントにおいて、木梨さんは特に高い評価を受けています。
彼の創造力と演技力が、パロディーの質を高めています。
アーティストとしての一面
木梨さんは画家としても活動しており、日本国内外で個展を開催しています。
この芸術的な側面は、彼の芸人としての魅力にも深みを与えています。
木梨憲武さんの芸人としての魅力は、多才さ、高いコント力、独特のお笑いスタイル、エンターテイナーとしての才能、そしてアーティストとしての一面が融合した結果生まれた、唯一無二の存在感にあると言えるでしょう。
30年を超えるキャリアの秘訣
木梨憲武さんの30年を超えるキャリアの秘訣は、以下のような要素にあります。
好きなことへの情熱
木梨さんは、自分の好きなことに対して強い情熱を持ち続けています。
「僕は自分の好きなことじゃないと燃えられないですね」と語っており、好きな事であれば困難があってもしがみついていく姿勢を持っています。
柔軟性とスピード感
木梨さんは、大手芸能事務所に所属せず個人事務所を設立したことで、独自の柔軟性とスピード感を持った活動が可能になりました。
これにより、直接番組の出演交渉や企画の決定ができ、迅速な意思決定が可能になっています。
独自のスタイルの追求
とんねるずとしても、個人としても、木梨さんは常に独自のスタイルを追求してきました。
「とんねるずらしくないことはしない」という姿勢を貫き、自分たちに似合うことを探し続けています。
人脈構築の重視
木梨さんは、積極的なあいさつと人との交流を大切にしています。若い頃から現在に至るまで、年齢や立場に関係なく積極的にあいさつをし、人脈を広げてきました。
多才な活動
お笑いタレントとしてだけでなく、役者、歌手、アーティストなど多方面で活躍することで、常に新しい挑戦を続けています。
楽しむ姿勢
木梨さんは、芸能活動を常に楽しんできたと語っています。
「ずっと楽しく続けてきました」という言葉からも、仕事を楽しむ姿勢が長いキャリアを支えていることがわかります。
これらの要素が組み合わさることで、木梨憲武さんは30年以上にわたって芸能界で活躍し続けることができたのです。
好きなことへの情熱、柔軟性、独自性、人脈、多才さ、そして何より楽しむ姿勢が、彼の長いキャリアを支える秘訣となっています。
ファンとの交流と反響
木梨憲武さんは、ファンとの交流を大切にし、SNSやイベントを通じて積極的にコミュニケーションを図っています。
木梨さんのファンとの交流と、それに対する反響について詳しく見ていきましょう。
SNSを通じた交流
木梨さんは、インスタグラムを活用して頻繁に情報を発信しています。
1. 日常的な出来事や活動報告
2. 著名人との写真投稿
3. 妻・安田成美さんの活動への支援
例えば、2024年10月には妻の安田成美さんの朗読劇を「最高」と絶賛し、その様子をインスタグラムで紹介しました。
この投稿に対し、ファンからは「エモ過ぎ」「ホントに成美サン大好きですよね」といった温かいコメントが寄せられました。
また、2024年1月には、ゴルフ場でビートたけしさんと所ジョージさんに偶然遭遇した際の3ショット写真を公開し、ファンを驚かせました。
イベントでの交流
木梨さんは、音楽活動やアート展示を通じてファンと直接交流する機会を設けています。
1. 音楽フェス「木梨フェス 大音楽会」の開催(2022年4月、両国国技館)
2. 「木梨憲武 交響楽団 THE CURTAIN CALL SHOW」の開催(2022年5月、東京文化会館)
3. 個展「木梨憲武展 Timing -瞬間の光り-」の全国巡回(2018年〜2022年、総来場者数122万人)
最近の活動と反響
1. 2024年10月29日、3rdアルバム『木梨ソウル』のリリースイベントを都内で開催。大雨の中、500人のファンの前で熱唱しました。
2. 2025年2月現在、『木梨アート大サーカス展』を開催中。バレンタイン記念のハッピーセットを販売するなど、ファンサービスに力を入れています。
3. 「木梨ソウル・ザ・ライブ」では、来場者限定のステッカープレゼントを実施予定です。
木梨さんのこうした活動に対し、ファンからは「のりさんすげ~っす!!」「憲さん最高!」といった熱烈な支持が寄せられています。
彼の多才な活動と親しみやすい人柄が、幅広い年齢層のファンを惹きつけ、長年にわたる人気の秘訣となっています。
妻・安田成美さんへの想い
木梨憲武さんの妻・安田成美さんへの想いは、長年の結婚生活を通じて深く、愛情に満ちたものであることがうかがえます。
#昭和爺の独り言
「とんねるず」木梨憲武&安田成美結婚報告! pic.twitter.com/keubKLpwxh— 九索爺 (@OWQPuiuqYA55079) December 7, 2024
出会いと交際
木梨さんは、映画の撮影で安田さんと出会いました。当時、安田さんは木梨さんを「別世界の人」と感じていましたが、木梨さんは撮影後に積極的にアプローチしました。
安田さんは木梨さんの印象について、以下のように語っています。
1. 「全然めげないガッツ」があった
2. 断られても明るく接し続けた
3. しつこいほど熱心だった
結婚後の関係
木梨さんと安田さんは30年以上喧嘩をしたことがないという、非常に円満な夫婦関係を築いています。
安田さんは木梨さんについて、以下のように評価しています:
●「生き上手」な人
●楽しむ力と自分を信じる力が強い
●才能豊かで、何をやってもできる
●「機嫌のいい人」
プレゼントと思いやり
木梨さんは、セレモニー的なことにはあまり興味がないものの、突然のタイミングでプレゼントを贈ることがあります。
例えば、安田さんが長期ロケから帰ってきた際に白いバッグをプレゼントしたエピソードがあります。
木梨さんの安田さんへの想いは、直接的な言葉ではなく、日々の行動や態度を通じて表現されているようです。
安田さんの穏やかな存在が、木梨さんの機嫌の良さにも影響を与えていると考えられます。
このように、木梨憲武さんの安田成美さんへの想いは、長年の結婚生活を通じて培われた深い信頼と愛情に基づいていることがわかります。
まとめ
木梨憲武さんの生い立ちから、学生時代、とんねるず時代か、そして現在までの活躍を時系列でご紹介してきました。
木梨憲武さんの生い立ちから現在までの活躍を時系列でまとめた表を作成しました。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1962年 | 0歳 | 3月9日、東京都世田谷区で誕生 |
1968年 | 6歳 | 世田谷区立戸塚小学校に入学、サッカーを始める |
1974年 | 12歳 | 世田谷区立千歳中学校に入学、サッカー部に所属 |
1977年 | 15歳 | 帝京高校に入学、サッカー部に所属 |
1979年 | 17歳 | 「TVジョッキー」の素人参加コーナーに出演 |
1979年 | 17歳 | 「ドバドバ大爆弾」に石橋貴明と共に出演 |
1980年 | 18歳 | 帝京高校卒業、東京ダイハツ販売に就職 |
1980年 | 18歳 | 「お笑いスター誕生」に石橋貴明と「貴明&憲武」として出場 |
1981年 | 19歳 | コンビ名を「とんねるず」に改名、「お笑いスター誕生」でグランプリ獲得 |
1980年代 | – | 「オールナイトフジ」「夕やけニャンニャン」などに出演しブレイク |
1994年 | 32歳 | 女優の安田成美と結婚 |
2010年代~ | – | 「木梨レコード」設立、音楽活動開始 |
2018年~2022年 | – | 個展「木梨憲武展 Timing -瞬間の光り-」を全国巡回(総来場者数122万人) |
2022年4月 | 60歳 | 音楽フェス「木梨フェス 大音楽会」を両国国技館で開催 |
2022年5月 | 60歳 | 「木梨憲武 交響楽団 THE CURTAIN CALL SHOW」を東京文化会館で開催 |
2024年10月 | 62歳 | 3rdアルバム『木梨ソウル』のリリースイベントを都内で開催 |
2025年2月 | 62歳 | 『木梨アート大サーカス展』を開催中 |
2025年7月~ | 63歳 | 全国巡回展「『木梨憲武展-TOUCH』SERENDIPITY-意味ある偶然」開始予定 |
この表は、木梨憲武さんの多才な活動と長年にわたるキャリアを示しています。
お笑いタレントとしての活動だけでなく、音楽、アート、イベント開催など、幅広い分野での活躍が見て取れます。