水谷豊の若い頃と今の画像!子役時代から青年期の視聴率46.7%のドラマでスターダムに!

水谷豊さんの若い頃と今の画像

水谷豊さんは若い頃(子役)から色々なドラマ、映画で活躍していました。

ドラマ『相棒』がスタートして22年、ちょっとクセのある「杉下右京」というキャラクターは広くお茶の間に受け入れられています。

しかし、ドラマ開始当初、水谷さんは先輩の俳優さんから「よくあんな嫌味な役を演るよね」と言われたとか。

水谷豊さんは、この言葉を聞いて「このドラマは成功した!」思ったそうです。

チョッピー
水谷豊さんて今の姿しかしらないけど、若い頃ってどんな俳優さんだったの?
のびお
若い頃は不良役が多かったんだよ。相棒がスタートした時は40代後半。東大を主席で卒業し頭脳明晰、冷酷な感じの刑事役だったな

水谷豊:「相棒」がスタートしたときの想い

水谷豊さんは、相棒が始まったとき、そんな簡単に杉下右京が良い人だと思われないようにしようと考えたそうです。

『嫌だあんな人』そう思われたら成功!だと考えていたそうです。

結果的に22年も人気ドラマとして続いているんですから、大成功と言っていいでしょう。

さぁ水谷豊さんの芸能界に入るきっかけ、子役時代のドラマから、青年期、そして現代のドラマや映画など、エピソードまとめてみました。

水谷豊さんてどんな方なのでしょうか、興味ありますね。

水谷豊:現在の姿と略歴をご紹介

2024年現在の水谷豊の画像
水谷豊 出典元タレント名鑑 
名前 水谷豊(みずたにゆたか)
生年月日、 星座、 干支 1952/7/14、かに座、辰年
血液型 A型
出身地 北海道
身長 168cm
プロフィール 1952年7月14日生まれ。北海道出身の俳優。主な出演作は、ドラマ「探偵 左文字進」シリーズ、映画「HOME 愛しの座敷わらし」、映画「王妃の館」など他多数。主な受賞歴に第5回日本アカデミー賞 優秀主演男優賞がある。
代表作 熱中時代 シリーズ(1978~1981、 1987、1988、1989)少年H(2013)相棒(2000~)
個人公式サイト https://trysome-bros.jp/yutaka-mizutani/

出典元:日本タレント名鑑

のびお
略歴を見ただけでも、水谷豊さんが俳優として活躍してきた歴史がわかるね、やはり代表作は熱中時代と相棒だな
チョッピー
水谷豊さんは今もすごいものね、子供時代はどんな子だったのかな?

水谷豊:8歳で北海道から東京に引っ越し

水谷豊さんは父の仕事の関係で、8才のとき、東京・立川市に引っ越しました。

そして、12才のときに近所の女性に勧められ劇団ひまわりに入団。

「立川で、水谷さんをかわいがってくれていた近所に住む女性から、児童劇団『劇団ひまわり』のパンフレットをもらい、即座に入団。すぐに舞台に出演するようになり、子役として活動を始めます。当時は山崎努さんや岸田今日子さん、橋爪功さんなどと共演したこともあったそうです」。

出典元newsポストセブン

劇団に入ることに、お母さんは反対しなかったんでしょうか。

普通は簡単に許可しませんよね。

じつは、小学6年の水谷豊さんは、悪の道に進みかけていたようなのです。

立川というところは「殺気だってるいるというか、どこか街が荒れているという感じがありました。」

下校して夕方近くになると、毎日仲間が誘いにきたんです。

皆で銭湯に行き、その後公園で仲間たちと遊んだりしていた。

他の小学校の生徒たちと反目して、たびたび喧嘩になることもありました。

そんなある日、郵便箱に学年主任が母親に宛てた葉書が入っているのをみつけた。

「最近、水谷君の様子がおかしい。彼は悪の方向へいくか、良い方向に行くかのどちらかだ。家庭での指導をくれぐれもよろしく。

この葉書を引き出しに隠したが、母親に見つかってしまい。
「これはなに」と聞かれたが、とぼけていたのね。そしたら、おふくろが台所から包丁を持ち出してきて「私も死ぬからお前も死になさい」って迫ってきた」

出典元水谷豊伝

当時の母親は、水谷豊さんにとって誰よりも怖い存在だったそうです。

悪い友達との付き合いもやめ、健全な生活を送るようになったときに、劇団ひまわりの話があったんです。

最初に書類選考があって、親の承諾が必要なんです。母は、僕が夜遊びをするよりマシだと思ったのでしょう。許可してくれました。

それから、オーディションに合格オーディションを受け、「劇団ひまわり」に入ったのが、12歳。もうすぐ中学生になるという頃でした。

出典元水谷豊伝

のびお
劇団ひまわりに12歳で入って子役からスタートしたんだね

水谷豊:12歳で劇団ひまわりに入団

水谷豊は12歳で劇団ひまわりに入団しました。

劇団に入った翌年、ジャニーズの江木俊夫さんが主演する『マグマ大使』にゲスト出演しました。

この番組には、フォーリーブスの江木俊夫をはじめ、二宮秀樹、魚澄鉄也、三瀬滋子、清水元、岡田眞澄が出演していました。

2016年に放送された『黒柳徹子だけが知っている THEテレビ伝説60年史』で、『マグマ大使』への出演映像が取り上げられました。

顔に面影がありますね。

番組では水谷豊さんが13歳のときの出演と紹介されていましたが、実際は14歳のときです。

水谷豊14歳で手塚治虫作「バンパイア」で初主演

 

水谷豊さんは、1968年14才のときに大きなチャンスをつかみました。

特撮ドラマ『バンパイヤ』(1968年)で800人の応募者の中から主役・立花特平(通称トッペイ)に大抜擢され、順調に俳優人生をスタートさせていく。

出典元水谷豊自伝

のびお
劇団に入って1年ちょっとで主演を射止めるなんて、才能があったんだね!

バンパイア用コンタクト・同姓同名・眼科医から提供

変身したときの金色の目はハードコンタクトレンズ2枚の間に、金色を塗ったものを入れていました。

この厚いレンズを目に入れて撮影していたんだらか、さぞ辛かっただろうと思います。

ちょっと横道にそれますが、このコンタクトを提供してくれたのが、眼科医の「水谷豊医師」でした!

水谷豊さんと同姓同名なので、看護師さんから「あなた、出世するわよ!うちの医院長と同じ名前だから」といわれたんです。

この水谷医師は、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる人で、プラスチック素材で日本初のコンタクトを作った人なんです。

初主演で、同姓同名の医師と出会うなんて、不思議な巡り合わせですね。

バンパイアは手塚治虫の「虫プロ」が作成していたのですが、お金を使い過ぎてパンクし、撮影が中断した時期がありました。

途中から長門裕之さん、津川雅彦さんの「人間プロ」が引き継いで再開します。

水谷豊さんが14歳の時に始まったバンパイアは、終了したときには、16歳になっていました。

水谷さんは、このバンパイアとの出会いが、一つの出発点であったと語っています。

「人はこうあった方が良い」 「人の社会はこうあってほしい」 。バンパイアはそういったメッセージが、人間への優しさを込めてつたわってくる作品だと思います。

芝居というものは、演じる側の生きざまがそれを意識しないときにあらわれてくるものです。

日常を非日常で巧みに描き出した「バンパイア」に出会い、それが芝居にも演劇にも通じているということを子供心に感じ取った。

そのことが意識しないなりにも役者としての僕をここまでささえてきたのかもしれません。

もちろん、十代のころと今とでは表現の仕方は変わってきているし、変わらなければおかしい。

けれども変わっていない何かも確かにあるのです。その意味でもトッペイという役に出会えたことが僕のひとつの出発点でもあるわけです。

出典元水谷豊自伝

その後、「青春の海」(西村昭吾郎監督67年)で映画デビュー、吉永小百合さんと渡哲也さんが共演の青春映画です。

水谷豊さんは吉永小百合さんが演じる中学教師の生徒役で出演しました。

水谷豊:高校時代にはアメリカ映画に影響を受けました

高校入学後の水谷豊さんは、アメリカの映画に強く影響を受けるようになりました。

「俺たちに明日はない」「卒業」「真夜中のカーボーイ」「明日に向かって撃て」など自己破滅型の主人公多く、それに惹かれたそうです。

チョッピー
「俺たちに明日はない」て

水谷豊さんも映画の主人公のように、今の状況に安住しようとは思わなかったようで。

破滅しても壊したいという気持ちの方が強かったと語っています。

70年に入ると次々と映画に出演していきました。

不良役の気持ちがわかったのかもしれません。

つぎつぎと不良生徒役のオファーがあったようです。

✅バツグン女子高生・松森健監督

✅その人は女教師・出目昌信監督

✅新・高校生ブルース・帯盛 迪彦監督

 

3本連続で映画に出演してきましたが、ここで業界の醜さを目のあたりにすることとなりました。

あんな大人になりたくないという人がたくさんいたのです。

その頃からですね。どうもこの世界は違う、芸能は自分が進む道じゃないな、もっと別な世界があるはずだと思い始めたのは。

大人というのは、どうしても上から物を言ってくるでしょう。

力でねじ伏せようとする。感性が違うし、なにかにつけてパワハラされる。

あそこえ行きたいと憧れて入った世界だったけど、そういう人たちがいると、この世界で過ごすのが辛くなりますよね。

現実を見たという感じもあったと思います。

出典元水谷豊自伝

この時代は芸能界だけじゃなく、どの業界もパワハラ、セクハラは凄かったんのでしょうか。

これが原因で、演技の仕事に対する熱量が少し失われてきてしまいました。

水谷豊さんは1970年の映画出演のあと、少しブランクがあります。

のびお
この業界は凄かったんだろうな。

水谷豊:大学進学を考え劇団ひまわり退団

水谷豊さんは、演じること自体は楽しかったが、いつしか「僕には別の世界があるはず」という思いが膨らんでいきました。

そして1970年には『劇団ひまわり』退団、「小日向企画」というプロダクションに所属します。

このとき18歳の水谷豊さんは、プロダクションの社長に「芸能の仕事を辞めて、大学に進学しようと考えている」と相談したのです。

「豊ちゃん、それは賢明な考えだよ。

この世界は第一線ずっと行けるのは、ほとんどなことなんだ。

90%以上の人が落ちていく世界だからね。君が仕事を辞めて大学受験するというなら、僕は応援して送り出すよ。」

出典元水谷豊自伝

プロダクションを辞めた水谷豊さんは、アメリカの大学進学を目指し、猛勉強を始めました。

アメリカの大学進学を目指し猛勉強を開始

水谷豊さん、なんでアメリカに行こうと思ったのでしょう?

やはり、立川でアメリカの文化に影響を受けたのかもしれませんね。

アメリカ留学を考えたのは、米軍基地の近くに住んで、その文化に影響されたことや、本国には立川基地で知り合い、その後、家族と共に移住した友人がいることで留学を考えた。

出典元水谷豊自伝

だが、受験を前に父の会社が倒産、留学どころではなくなりました。

父の会社が経営破綻して、アメリカ留学どころではなくなったんです。

それで日本の大学を受けることにした。

なぜか、僕はネット上で法政大学や東京商船大学を受験したことになっていますが、まったく別の大学で、学部は政経学部でした。

出典元水谷豊自伝

アメリカ行きを諦め、日本の大学受験を試みるも、失敗してしまう。その心の傷はとても大きかったようです。

芸能界を去るつもりが、大学受験に失敗、これは初めての挫折だったのかもしれません。

チョッピー
水谷豊さんのこの年は、人生の転機だったんだね

18歳初めての挫折そして家出

「目の前の道が閉ざされてしまった水谷豊、18才のときに家出をします。

所持金はわずか400円

野宿をするも寒さで寝付けず、偶然出会った男性に世話になったり、山中湖畔のドライブインで住み込みのアルバイトをするなどして2か月間を過ごしました。

「何か、劇的な出来事があって家出をしたわけではなく、自分探しといったところだと思いますね。でも、帰ってから、周囲の人に『なんか変わったね』と言われたと、音楽番組で語っていたことがありました。

人生を考える上でいい機会になったのではないでしょうか」

出典元newsポストセブン

家出して芸能界以外の世界で過ごした2ヵ月、改めて何か感じることがあったのかもしれません。

この2ヵ月間、お母さんは必死に探し回ったのだとか。

水谷豊さんが家出したあと、母親はあらゆる友人・知人に連絡して探し回ったそうです。

心痛のあまり頭髪が真っ白になってしまいました。

しかし電話したときは叱るでもなく、「もうそろそろ帰ってきたらと」いったとか。

家に帰ってきた水谷豊さん、進学のための学費を稼ぐためにバイトを探します。

そのときに、運命的ともいえる人物が登場しました。

「いい役があるんだけど、監督に会ってくれないか」そんな話がきたそうです。

水谷豊さんが芸能界を離れていることを知らずに、オファーしてきたそうです。

水谷豊:日本テレビプロデューサーから出演オファー

19才となった水谷は、知り合いのプロデューサーから「ちょうど19才の役を探している」と声をかけられ、収入のいいアルバイトという感覚で、俳優の仕事を再開することになります。

この小坂敬プロデューは「火曜サスペンス劇場」や「火曜日の女」などを企画作成した大物プロデューでした。

水谷豊さんが青年期に活躍したドラマに、これから先たくさん関わってくることになります。

そんな大物プロデューから会ってほしいと言われた監督が、富本宗吉氏でした。

人間国宝の陶芸家・富本健吉の長男で、大映東京撮影所で腕をみがき、退社後は山口百恵と三浦友和が主演の「泥だけ毛の純情」を監督、「ザガードマン」(TBS)や「家政婦は見た」(テレビ朝日)などのシリーズものをやっていました。

水谷豊さんはそんな監督の元で「火曜日の女」シリーズの「あの子が死んだ朝」(日本テレビ)の出演でした。

演じる役は、不良グループの一員です。

暴力団から麻薬を盗んで逃げるときに、新聞配達の少年をグループのだれかが突き飛ばし、結果的に殺してしまう設定です。

2005年09月23日
[あの子が死んだ朝]

(全6話)

1972年・大映テレビ・1話60分・カラー
演出:富本壮吉 出演:加藤治子 水谷豊 緑魔子 高城丈二 沖田駿一 高橋昌也 テレサ野田 早川雄三 麻衣ルリ子 佐久間三雄 杉山光宏 二瓶康一 諸口旭 滝譲二

平凡で幸せな生活を送っていた主婦・志津子の家に、息子の友人の不良少年グループが居つき始めた。マリファナをめぐって暴力団から追われているらしい。一方、息子の卓也は少年殺害の容疑者として刑事に追われていた…。中流家庭に突然舞い込んだ不幸に対して、ただ一人勇気を持って立ち向っていく主婦の姿を描いたサスペンス・ドラマ。

出典元チャンネルネコ

このときの熱演が次の仕事につながったようです。

俳優に戻った水谷さんは学園ドラマに出演つぎつぎに出演していきます。

1960年代後半から1970年代は学園ドラマのブーム全盛期でした。

水谷豊:20代に入り不良役でのオファーが次々に

「炎の青春」と「飛び出せ!青春」など数々の学園ドラマが制作され、1972年20才フジテレビ放送の「泣くな青春」にも出演し、このときが20才です。

この当時の水谷豊さんといえば、「不良役」のイメージが強かったですね。

のびお
悪の不良役がほんとに似合ってたんだね、今のイメージと全然ちがうな

 

水谷豊:太陽にほえろ!マカロニ刑事登場ゲスト出演することに

20代に入った水谷豊さん、「太陽にほえろ」(72年)、マカロニ刑事(萩原健一)登場の第一話に犯人役でオファーがきました。

プロデューサーの岡田普吉氏が、水谷豊さんの演技を観て犯人役に抜擢したそうです。

岡田さんは、当時の水谷豊さんを次のように語っています。

「『炎の青春』と『飛び出せ!青春』に出ている水谷豊を見て、10代の若者が持つ発散できないようなイライラ感を表現するのがうまいな。

出典元newsポストセブン

第1話はショーケン(萩原健一・享年68)が演じるマカロニ刑事の登場シーンから始まります。

そしてクライマックス、犯人役の水谷豊さんとの真剣勝負が、最高に盛り上がりました。

「クライマックスシーンは印象的でしたね。後楽園球場で犯人役の豊を、マカロニ刑事のショーケンが走って追いかけるのですが、観客席は広くて段差があるので、途中で休んだり、いい加減に走っても編集でうまくつなぐことができるのですが、2人とも全力疾走!

懸命に走る彼らを見て、『このドラマは当たる!』と、私は確信したのです」

出典元newsポストセブン

岡田普吉プロデューサーに気に入られて、「太陽にほえろ」30話にも犯人役で出演しています。

そして、「太陽にほえろ」は、マカロニ刑事からジーパン刑事に代わっていきます。

このジーパン刑事(松田優作)の時にも犯人役でオファーがありました。

水谷豊さんにとってジーパン刑事こと松田優作さんとの出会いは、生涯の友との出会いと語っています。

【太陽にほえろ】ジーパン刑事・松田優作との出会い

水谷さんが「生涯の友」と語る俳優がいる。『太陽にほえろ!』で共演した松田優作さん(享年40)だ。

まだ新人だった松田優作さんのサポートをしてもらうために、岡田プロデューサーが水谷豊さんをキャスティングしたそうです。

子役からやってた水谷は、松田優作に先輩への挨拶の仕方、カメラの立ち位置、芝居を始めるタイミングなど、さりげない気遣いがつたわり、あっという間に打ち解けて一緒に飲みに行ったり、食事に行ったりしていました。

出典元水谷豊自伝

このとき松田優作さん(23歳)水谷豊さん(20歳)でした。

岡田プロデューサーは二人の関係について、つぎのように語っています。

「当時、優作はほぼ新人の状態。豊は優作より3才年下ではありますが、キャリアとしては先輩でしたから、優作に芸能界とはどんなところなのかを教えるための、いわば教育係も兼ねて、再び犯人役に起用したんです」 2人はすぐさま意気投合。「豊ちゃん」「優作ちゃん」と呼び合い、2人で旅行に出かけるような関係になっていく。

出典元newsポストセブン

のびお
松田優作さんとは生涯の友というくらいだから、よほど気が合ったんだね。

水谷豊:「傷だらけの天使」で萩原健一の弟分に抜擢の詳細について

水谷豊さんの出世作は1974年「傷だらけの天使」です

東京・麹町にあった日本テレビの喫茶店で、ショーケン(萩原健一)とプロデューサーが話していて“ショーケンとコンビを組むのは誰がいいか”という話になったそうです。

そのとき、ショーケンが『水谷くんでいこうよ』と、指名したそうです。

誠実だし、ひたむきだし、いつも一生懸命やる子だった。だから、推薦したんだ。豊ちゃんはいつも一生懸命だった。必死になってセリフを覚えてくると、ぼくが時々、全然違うことを言うじゃない。

そうしたら、あの目をまんまるにしちゃってさ。あのころ、豊ちゃんは役者をやめようと思っていたそうだ。そこへ「傷だらけの天使」の話が来て、やめるのはこれをやってからにしよう、と考え直したんだって。

出典元「ショウケン」

水谷豊さんは不良役で多くのドラマに出演していたにも関わらず、「傷だらけの天使」に参加するときに「これが終わったらやめる」つもりだったそうです。

不良役を軽快に演じきったこの作品で水谷は先輩たちと公私にわたって日々をともにし、俳優としての方向性にも大きな影響を受けることになりました。

萩原健一さんが、オープニングで見せる瓶の牛乳を飲む姿がかっこよかったですね!

真似した人もいるんじゃないでしょうか。

水谷豊さんは萩原健一さんとの関係について次のように語っています。

 

「『太陽にほえろ!』で僕が犯人役、萩原さんが刑事役で一度共演して以来でした。

『傷だらけ』が始まって間もなく、萩原さんの自宅に招かれ『泊まってけよ』と言われて、その晩、『一緒に風呂入ろう』って言って、2人でお風呂に入ったんですよ。

『背中を流し合おう』って。そういうところから始まってるんです。芝居をやる以前に関係を作ってくれたんです。それがすごく印象深いし、随分一気に人間関係が近づいた気持ちにしてもらえましたね」

出典元水谷豊自伝

あきら役の水谷豊さんのアニキ〜は凄く流行った、その当時はみんな真似してました。

あれから50年、2024年現在ここに出ていた俳優さんは、レギュラーもゲストもほぼ天国に行ってしまいました。

岸田今日子、岸田森、西村晃、池部良、阿藤海そして萩原健一、みんな素晴らしい俳優でした。

20代【傷だらけ天使】後に次々オファーが殺到

1976年水谷豊さんはNHKの土曜ドラマ「男たちの旅路」でベテランガードマン、吉岡晋太郎役の鶴田浩二さんと共演し、新人ガードマンの杉本陽平役を演じています。

このシリーズは1976年から1979年にかけて4部にわたり放送されました。

また、1976年には「青春の殺人者」(長谷川和彦監督)が高く評価されます。

「青春の殺人者」は第50回キネマ旬報ベストテン日本映画第1位、日本映画監督賞、脚本賞を受賞。

水谷豊さんは、最優秀主演男優賞を受賞しました!

水谷豊:歌手としてもデビュー

水谷豊さんは1977年には歌手デビュー「はーばーらいと」という曲でデビューを飾りました。

1979年には「熱中時代・刑事編」の主題歌「カリフォルニア・コネクション」を大ヒットさせ、歌手としても成功を収めました。

水谷さんの歌声には暖かさが感じられ、特にこの曲はシンプルで親しみやすく、多くの人に愛されています。

熱中時代教師編で大成功!スターダムに

 

1978年10月、水谷豊さんは26歳のときに「熱中時代 教師編1」に出演しました。

この学園ドラマでは、小学校の教諭を主人公にするという新しい試みが行われました。また、子役時代を過ごしたひまわり劇団の仲間たちとも共演したんです。

このドラマは視聴者から高い支持を受け、初回視聴率12.2%から最終回では46.7%の呼応視聴率に跳ね上がり、その伸びはビデオリサーチによると歴代最高記録となっています。

「熱中時代」の成功は、傷だらけだった水谷豊さんをスターダムへと押し上げるきっかけとなりました。

30代:伊藤蘭と再婚そして松田優作との別れ

出典元日刊ゲンダイ

水谷豊さんは、元キャンディーズの伊藤蘭さんと結婚を決めたのは、88年11月でした。

水谷さんと蘭さんの出会いは、23歳の頃です。

「傷だらけの天使」が終わったあと、「週刊平凡」の表紙の撮影を一緒にしたのが初めてでした。

水谷さんは、蘭さんがキャンディーズのメンバーで活躍していた、(1972年~78年)ころからのファンだったんです。

主人との出会いにしても、実はキャンディーズ時代に雑誌の表紙の撮影であったのが初対面なんです。

でも主人が言うには、これはキャンディーズと話せるチャンスだと思って、「忙しいですか」と話しかけたら、「はい」で終わってしまって、なぁーんだって感じだったみたいですよ。

出典元水谷豊伝

この蘭さんとの出会いは一瞬で終わってしまいましたが、次に出会ったのは日本テレビ系列のドラマ「あんちゃん」での共演でした。

水谷豊さんは「あんちゃん」(1982年)で蘭さんと共演したときは、ミッキー・マッケンジーさんと結婚したばかりでした。

主人とは「あんちゃん」という連続ドラマの兄妹役で共演したのですけど、最初の印象は、いいひとだなぁ、すごい役者さんだなぁて。ただ当時の彼は結婚したばかりでしたので恋愛の対象にはならなかったですね。

あくまでもいい共演者、いいお友達で終わったかもしれないんですけど、たまたまむこうが離婚しましたので・・。

出典元水谷豊伝

その後、「事件記者チャーボ」(1984年)で共演し仲のいい友達関係が続いていました。

水谷豊さんが、マッケンジーさんとの結婚生活に溝が生じ、離婚したのが1986年5月です。

マッケンジーさんは、結婚当初は日本にいたのですが、すぐにアメリカに帰ってしまい、戻ることはありませんでした。

一緒に居すぎるのももんだいがおきるっていうけど、ずっと離れているというのもね。彼女は日本で暮らしていく気持ちはなかったし、僕も向こうにずっといられるわけではない。

日本とアメリカという距離もそうだけど、気持ちも少しずつ離れていった。二人で話し合って、最終的に、この結婚生活はもう無理だ、これ以上は続けられないという結論を出した。

離婚が決まり、その後蘭さんと交際がはじまります。

水谷豊さんは蘭さんと2年半お付き合いし再婚しました。

この時、水谷豊さんは37歳になっていました。

まさかこの年に、親友・松田優作さんとの別れが待っているとは考えもしなかったでしょう。

水谷豊:松田優作との思い出

松田優作さんが亡くなったのが40歳でした。

水谷豊さんが37歳で、当時の出来事を次のように語っています。

松田優作さんが膀胱ガンの治療のため、都内の病院に入院したのは88年9月でした。

電話で優作ちゃんは、『膀胱になにかができているらしいけど、大丈夫だから』といっていた。

実は僕にも、ときどき血尿の症状があって、そのことは優作ちゃんに話していたのね。

それで、お見舞いに行ったとき、優作ちゃんから『病院に来たついでに、豊も調べてもらえよ』と言われて、検査することになった。

出典元水谷豊自伝

水谷豊さんの検査結果は、初期の膀胱ガンで手術が必要でした。

手術のために入院することになります。

松田優作さんが退院し、代わりに水谷豊さんが入院することになりました。

水谷豊は膀胱ガンは公表せず手術

水谷豊さんは自分の病気のことは一切公表せず、手術を行いました。

ガンという病名が、仕事に与える影響が大きすぎると考えた結果だそうです。

当時のことを懐かしく話しています。

僕が手術入院している間に優作ちゃんが退院して、今度は優作ちゃんが僕のお見舞いに来てね。

二人で病院のトイレに隠れて煙草を吸ったり、屋上のベンチで差し入れのコーヒーを飲みながら色々な話をしたのよ。

とにかく、楽しい話をした記憶しかない。あれは二人だけの秘密というか、とても密度の濃い時間だった。

出典元水谷豊自伝

手術のあとは、毎月抗がん剤を入れて、飲み薬で治療をしていたそうです。

その後、水谷豊さんが検査入院しているときに、松田優作が救急車で運ばれてきました。

ブラック・レイン(89年)の撮影が終了したあとで、急激に症状が悪化したのだとか。

松田優作さんはこのとき、膀胱ガンは末期症状になっていたようです。

松田優作さんは絶対に手術をしないで治すと言っていて、水谷豊さんも必ず治るものと思っていたようです。

松田優作逝去の知らせを聞きパニック!

松田優作さんは89年10月上旬に最後の入院をして、11月5日に逝去しました。

水谷豊さんは入院直後に、再婚した伊藤蘭と一緒にお見舞いにいき、10月下旬にはニューヨークに2週間の新婚旅行に出かけました。

二人がニューヨークから帰国したのが11月4日、翌日に松田優作の逝去を聞きパニックに!

優作ちゃんも僕も、きっと治ると信じていたのに、、死ぬなんて、本人は最後まで考えていなかったと思う。

もし、優作ちゃんが(自分に残された)時間がないことを知っていたら、あんなに笑わないよね。病院で別れるときも、次の仕事の話をしていたんだから。

出典元水谷豊自伝

葬儀が終わり最後の別れになった時に、水谷豊さんは棺に横たわる親友の上におおいかぶさり、大声で泣き叫んだそうです!

それくらいつらい親友との別れであったようです。

この松田優作さんの逝去は大きなニュースになりました、ブラックレインが好評で、これから海外で活躍すると思っていたのでよけいにショックでした。

松田優作さんはコミカルな演技から、ハードアクションやシリアスな演技までふり幅が広く、もし今も生きていたらハリウッド映画でも活躍していたかもしれません。

水谷豊さんは大親友との悲しい別れを乗り越えて、相棒が初めて放映される2000年6月3日まで、色々なドラマや映画で活躍していきます。

水谷豊40代後半・2001年相棒がスタート

相棒シリーズ1杉下右京と亀山薫の画像
杉下右京と亀山薫

水谷豊さんは2001年、48歳の時に「相棒 プレシーズン2」に出演しました。この時はまだ土曜ワイド劇場のスポット放送でしたが、その後人気を博し、現在ではシーズン22まで続く長寿テレビドラマシリーズとなっています。

2011年には「相棒 シーズン10」に58歳で出演し、この頃から現在に至るまで彼の外見や演技スタイルに大きな変化はありません。

2024年の元旦に放送された「相棒22」では71歳となっていますが、その若々しい容姿と演技は水谷さんの魅力を一層引き立てていますね。

そして、子役出身であることは、「いまもなお水谷さんの根底にある」という。

「事あるごとに、『ぼくは子役出身だからさ』と、おっしゃるんです。ドラマの現場で子役出身の役者さんと一緒になると、『ぼくたち、子役あがり保存会だから』なんて、茶目っ気たっぷりに言いながら、すごく喜ばれるんです」(池澤さん)

出典元newsポストセブン

今の俳優は、女性も男性も子役出身が多くなっています。

若くて演技が上手いので、いろいろなドラマに出演していますよね。

昔は子役出身はダメと言われていたのに、それは過去の話になったようです。

水谷豊さんも若い頃からクールで整った容姿が魅力でした。

不良役から先生、刑事、探偵、時代劇など、なんでもこなせる役者さんです。

プロ意識の高さが背景にあり、年齢を重ねるごとに演技はさらにみがきがかかっているんじゃないでしょうか。

60代・70代の水谷豊・老いについての考え方

健康意識が高く、若さを保つことに懸命な現代にあって、水谷豊さんは「外見だけが若返っても意味がない」と話しています。

むしろ心がおだやかに、そして前向きな状態が重要だと思っているそうです。

僕にとっての若さとは、物事をネガティブにとらえないこと。

嫌なことも角度を変えてみれば、嫌じゃなくなります。いつか終わりが来る人生ならば、できる限り笑って過ごすことでしょうか。

おそらく、やり切った感がないままに終わっていくだろうと思いますけど、終わりが来たときに「素晴らしい人生だった」とまではいかなくても、「まあ、悪くはなかった」と思いればいい。

そのためには、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔することはなるべく無くして「今日一日楽しかった」という日を積み重ねていく。」

出典元水谷豊自伝

のびお
この考え方、僕もいただき!少しでもそんな生き方ができるように近づきたいな

水谷豊さんは60代で監督として3本の映画を撮っています。

そして70代に入りこんどは自分がプロデューサーとして、作品を作ってみたいと思っているそうです。

「相棒」シリーズ、舞台、映画、そしてライブコンサートなどこれからも精力的にやっていくようです。

まだまだ、水谷豊さんの未来は、広く末広がりの状態が続くでしょう。

これから先もたのしみな俳優さんであり、応援していきたいと思っています。

まとめ

水谷豊さんの若い頃から今!そんなテーマで子役時代から現代までをご紹介してきました。

子役時代のエピソードや、青年期の不良役のドラマ、そして水谷豊さんをスターダムに押し上げた「熱中時代」!色々な役を演じてきた水谷豊も今年で72歳になります。

歩いてきた軌跡を振り返ると、「波乱万丈」と言っても良いかもしれません。

でも、本人は「楽しかった!」と思っているのでしょう。

さあ、水谷豊さんという俳優をあなたはどう感じているでしょうか?

私は水谷さんの「真面目」な性格と「前向きな考え方」が気に入っています。

相棒があと何年続くかわかりませんが、楽しみに応援していくつもりです。

 

テキストのコピーはできません。