「ミスターSASUKE」59歳の山田勝己が大快挙!
3分間の腕立て伏せ対決でパリ五輪メダリストを撃破!ネットでは「カッコよすぎる!」と大反響
「ミスターSASUKE」の異名を持つ山田勝己さんが、10月31日に放送されたTBSの「大晦日オールスター体育祭」に出演。なんと、3分間で腕立て伏せを何回できるか競う「3ミニッツプッシュアップ」で139回をマークし、見事に優勝を果たしました!
多くのアスリートがいる中で59歳の山田勝己が優勝はレジェンド過ぎる笑
笑いも取りつつ競技でも優勝はもうMVPだろ笑 pic.twitter.com/8hITKDhTtV— 中林 勝司 (@katsuji_0918) December 31, 2024
対戦相手には、柔道のパリ五輪銅メダリスト・永山竜樹選手や、レスリング金メダリストの日下尚選手といった強豪が揃っていて、山田さんが勝つなんて誰も予想していませんでした。
でも、山田さんは焦ることなくマイペースで腕立てを続け、なんと最後の最後で永山選手を逆転!
59歳が頂点に立つという圧巻のドラマが生まれました。
これにはSNSでも感動の声が続々と!
「山田勝己、オリンピアン相手に3分間腕立てで優勝ってスゴすぎ!」
「山田勝己さん、レジェンドすぎる…!」
「最近SASUKEでネタキャラ扱いしてごめん…本当カッコイイわ!」
こうした声が次々と上がり、「山田勝己」が日本のトレンド入り!その注目度は、まさにレジェンドの名にふさわしいものでした。
現在もSASUKEに出場するほどの、山田勝己さんですが、若い頃はどんな人だったのでしょう?
興味ありますよね!調べてみましたよ(^^♪
【山田勝己】若い頃
山田勝己さんは1965年10月22日に兵庫県加古郡播磨町で生まれました。
若い頃から運動能力が高く、多様なスポーツに取り組んでいました。
幼少期から高校時代
山田勝己さんは 小学2年生の時、阪神タイガースの掛布雅之に憧れてソフトボールを始め、全国大会に出場しました。
✅ 陸上の長距離走が得意で、小学4年生からマラソン大会で毎年優勝していました。
✅ 中学時代は陸上部に所属し、長距離走を続けました。
1965年10月22日、兵庫県加古郡播磨町に生まれる。
阪神タイガースの掛布雅之に憧れて、小学2年生で地元のソフトボールチームに所属し、全国大会出場の経歴を持つ。
陸上の長距離走が得意であり、小学4年生からマラソン大会は毎年優勝していた。
躍進のきっかけは、自信を持って臨んだ小学3年生のマラソン大会で4位に終わった悔しさから練習を続けたことだという。
中学では野球部に入るつもりだったが、強力な勧誘があった陸上部に入部。
出典元:Wikipedia
高校野球への挑戦
山田さんは兵庫県立東播磨高等学校に進学し、野球部に入部しました。
✅野球未経験ながら、エースで4番を目指しましたが、すぐに肩を壊して野手に転向。
✅高校1年生の11月、重要な試合で代打に立つも三球三振。
この悔しさをバネに猛練習を開始。
✅1日1500本のスイングを課し、授業後も打撃練習に励む。
✅高校2年生の春、8番で先発出場し、2打席連続ホームランを放つ。その後4番打者に定着。
兵庫県立東播磨高等学校に8期生として進学。「今度こそ、野球部に入る」と心に決め、合格発表の翌日にはジャージ姿で野球部の練習に押し掛けた。幼い頃からソフトボールには親しんでいたが、野球は未経験のまま入部。エースで4番を目指していたが、すぐに肩を壊して投手から野手に転向した。
高校1年生の11月、その年の最後の練習試合に、9回二死2、3塁の一打逆転の場面で代打に指名されたが、すべて見逃しで三球三振に終わった。
山田は「ひざがガクガク震えてバットを振ることができなかった。
野球ではそのとき初めて悔しいと思った」と語り、「そこからなにかにのめり込む際の度合いが激しくなっていったんです。
春までの約5カ月、学校や寝ている時間以外はほとんどバットを振っていました」と語るほど野球に没頭。
1日1500本のスイングを自身に課し、授業後の学級活動を抜け出して打撃練習をしたこともあったという。
その後、高校2年生の春の2試合目に8番で先発出場。
2打席続けて初球のストライクをホームランにし、その後は4番で固定されたという。山田は「あの三球三振がなければ、今のようにはなっていないです」と振り返っている。
出典元:Wikipedia
野球引退後
✅ 高校卒業後、22歳でソフトボールを再開し、全国大会を目指すチームで活動。
✅ 25歳からトレーニングを再開。
✅31歳でSASUKEと出会い、人生が大きく変わる。
高校卒業を境に野球を辞めた後は、22歳でソフトボールを始め、全国大会を目指すハイレベルなチームで汗を流し、25歳からトレーニングを再開し31歳でSASUKEと出会う。
後に山田は「学生時代は人より運動ができましたので、できない人の気持ちを理解することができなかったですが、SASUKEは挑戦する度に落ち続け、非難を受けたことが挑戦を続ける理由の一つになりました」と述懐している ほか、「『俺より出来るやつなんて世の中におらへん』と思っていたんですよ。
でも、SASUKEはやっても出来ひん、やっても出来ひんという。そこで自分って何やろうと考えたとき、自分って何にも出来ひんのやって気付かされたし、自分の弱さも実感出来ました」と語っている。
1996年、TBS『筋肉番付』の『クイックマッスル全国選手権』に出場。これはソフトボールの練習中に大怪我をして、1年ほどソフトボールができず、まともなトレーニングは腹筋と腕立て伏せしかできなかった頃に、テレビで腕立て伏せをやっている姿を見て、「これなら自分でもできそうだな」と思い、応募に至った。
結果は準優勝。これが後のSASUKE出場のきっかけとなる。
出典元:Wikipedia
山田さんは若い頃から努力家で、失敗を糧に成長する姿勢が際立っていました。
この経験が後のSASUKEでの活躍につながったと言えるでしょう。
【山田勝己】SASUKEとの出会い
山田勝己さんは、腕立て伏せを毎日1000回くらいやっていたそうです!
1000回ってすごくないですか?
それで「筋肉番付」に出ることになったんです。
✅1996年、TBS『筋肉番付』の『クイックマッスル全国選手権』に出場、準優勝。
✅1997年、「SASUKE第一回」大会に出場!
1997年、SASUKE第1回大会に「クイックマッスル全国大会準優勝」の肩書きを引っ提げて出場した。
同年、TBS『筋肉番付』の『MUSCLE RECORD 9ミニッツ』(9分間腕立て伏せ)に出場。644回の記録を打ち立て準優勝となった。
1999年、第3回大会に出場。本大会開催前に、山田は自宅の庭にSASUKEを模したセットを製作して練習を重ねた。同大会は完全制覇まで残り約30cmまで迫り、初の大会最優秀成績を記録。
同年、第4回大会で初めてゼッケン100番を与えられるなど、一躍SASUKEを代表する選手となる。
2000年春、仕事中にSASUKEの練習に熱中したことにより、放置したボンベが爆発したり、仕事の合間にいろんな施設に行って、筋トレや走り込みをしていたことが会社に知られ、ボンベ配送業の仕事をリストラされる。その後は妻の実家の鉄工所でアルバイト、野球場でビール売りのアルバイト(売上は1位)で生計を立てながら出場を続ける。同年秋開催の第6回大会にて2回目の大会最優秀成績を記録。しかし、この頃は1日に700回もの懸垂や何十キロの重りを背負った坂道ダッシュなどのオーバーワークを、仕事から帰ってきてから夜中の2時くらいまでトレーニングしていたため、膝や腰を痛める不調が続き、満身創痍の状態に。その後、紹介状をもらって病院に行ったが、病名がないと診断された。結果、翌大会の第7回大会では、自身初の1stステージでリタイアとなった。
2002年秋、第10回記念大会にて3回目の大会最優秀成績を記録。
2012年、第28回大会をもってSASUKEを引退。
2013年以降、「山田軍団 黒虎」というチームを結成し、自身を慕う若手選手たちとトレーニングを重ね、指導者という形でSASUKEに携わる。軍団の運営については「コーチという生温い形は嫌なので、師匠と弟子のように厳しく精神面も技術面も鍛えていきたいと思っています」と語っている。
2017年、妻の実家の鉄工所の跡を継ぎ、社長となる。
2020年、『SASUKE2020』第38回大会より現役復帰。
出典元:Wikipedia
まとめ
ミスターSASUKEの山田勝己さんが、「大晦日オールスター体育祭」に出演。
なんと、3分間で腕立て伏せを何回できるか競う「3ミニッツプッシュアップ」で139回をマークし、見事に優勝しました。
山田勝己さんの若い頃から、現在を時系列でご紹介してきました。
SASUKEにかける思いはホントに強く、「山田軍団黒虎」で若い人たちを鍛え、完全制覇に挑んでいます。
これからも、山田勝己さんと、「山田軍団黒虎」は見逃せませんね。