水谷豊さんと言えば「相棒」というくらい、杉下右京のイメージがあると思います。
現在72歳になった水谷豊さん、なんと芸歴は60年!
水谷豊=杉下右京のイメージがある方には、12歳から俳優をやっていることを、知らない人もいるんじゃないでしょうか?
そこで、この記事では水谷豊さんの、芸能界に入るきっかけになる、小学校時代から19歳までの出来事にスポットをあててみました、ぜひ最後までご覧ください。
では、水谷豊さんの小学校時代にさかのぼる前に、現在の水谷豊さんをみてみましょう。
目次
水谷豊:1952年7月14日生まれ(かに座)
水谷豊さん、70代に入っても、カッコイイですね!
なんといっても、人気ドラマ「相棒」で活躍しているので、いつまでも若いです。
長女の趣里(1990年9月21日生まれ)さんも30代前半になり、NHK朝ドラ主演!その他ドラマや映画で大活躍しています。
来月から放送開始のドラマ「ブラックぺアン2」の追加キャストに趣里さん。
朝から嬉しいお知らせでした(^^)ただ、しばらくは関西弁で喋らない事に違和感を感じるのでは無いかと不安(^^;;#ブラックぺアン2 #ブギウギ #趣里 pic.twitter.com/poxBD0YU4y
— リニアモーターボーイ (@YMO_Children) June 25, 2024
趣里さんは、水谷豊さんが38歳のときに生まれた子供なので、とても可愛がられたことでしょう。
しかし、趣里さんが芸能界に興味を持ったとき、水谷さんは最初は反対していたようです。
その理由は、水谷さんが10代のころに芸能界の嫌な部分をたくさん見て、俳優を辞めようと思っていた時期があったからです。
趣里さんが生まれたことで、初めて俳優を長く続けようと思った水谷さんですが、それでも娘には同じ思いをさせたくなかったのでしょう。
では、水谷豊さんの子供時代はどんなことがあったのでしょうか?
興味が湧いてきますよね!それでは、さらに詳しく見ていきましょう。
水谷豊8歳 子供時代は米軍基地の街立川で育つた
水谷豊さんは、1952年7月14日に北海道芦別市で生まれました。
父親の仕事の関係で、北海道から東京の立川に引っ越すことになります。
このときが、1960年の春です、水谷豊さんは8歳になる年ですね。
母から、北海道の家を引っ越して、父がすんでいる街へ移ると教えられました。
母が父からの手紙を読んでくれて「こちらでは、米軍の飛行機が飛んでいます」という内容だった。
一家は米軍の立川基地(現・自衛隊立川飛行場)の近くに居をかまえました。
自宅の真上を米軍の輸送機が飛び交い、騒音がひどかった。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、米軍基地ちかくに住むことになり、アメリカ文化の影響を強く受けることになるんです。
北海道とはまるで違う新天地でのくらしは、この街ならではの体験をすることになります。
友だち数人で野球をしていたら、退役軍人の男の人と、日本人の奥さんがやってきて、僕たちにチョコレートやキャンディーを配ってくれるんです。
そのとき、おでこにキスするんですね。
当時は、ラッキーとか思っていましたが、今、考えてみたら不思議な光景ですよね。
チョコレートは嬉しかったけど、いつもポケットに入っていたのは風船ガムです。
出典元:水谷豊自伝
米軍基地近くに住んでると、アメリカ文化の影響は大きいよね!
北海道で育った純朴なこども水谷豊さんは、立川の米軍基地周辺の環境に影響され、変わっていきました。
敗戦後、東京都立川市には3,000人以上の洋娼(パンパン)がいたそうです。
これらの女性たちはアメリカ兵のために働いており、アメリカ兵たちからは『黄色い便器』と呼ばれていました。
評論家の神崎清は、立川市を〝米軍の排泄都市タチカワ〟と呼びました。
水谷さん家族が引っ越してくる10数年前までは、立川はこんな状態だったんです!
買春防止法が1957年に施行されてから、立川に赤線地帯がなくなりました。
そして、「排泄都市」「黄色い便器」などの米兵による不名誉な名称は薄れてきましたが、立川という街は、日本の他の地域とはあきらかに違う環境だったんです。
小学生の水谷豊さんが、こんな環境の中で悪い遊びをおぼえ、仲間と一緒に行動することは、自然な流れだったのかもしれません。
僕ね、小学校6年のとき、包丁をもった母親に追いかけられたことがあるんですよ。
学校で、悪い仲間ができて、毎日、夜中まで遊んでいたから。
夕方になると仲間が誘いにきて、よく行ったのが銭湯だった。
ゴム風船にお湯を入れて、口を縛り、それを風呂の中で投げ合って騒ぐんです。
大人に「いい加減にしろ!バカ!」と怒鳴られるのが目的でふざけていた。
その後、公園に行って仲間と遊んでいました。
他の小学校の生徒たちも集まっていて、おたがい反目し合い、たびたび喧嘩を繰り返していた。
「殺気だっているというか、どこか街が荒れているという感じがありましたね」
出典元:水谷豊自伝
この当時の立川は、米軍の兵士がたくさんいために、いろいろな娯楽施設や飲食店、バー、キャバレーなどが街に犇めいていました。
母親に包丁を突き付けられ悪の道から抜ける決意!
水谷豊さは、母親に追いかけられた当時のことを次のように語っています。
ある日、学生主任から母親宛にきた葉書をポストでみつけたんです。
<最近、水谷君の様子がおかしい。彼は悪の方向へいくか、良い方へ行くかのどちらかだ。家庭での指導をくれぐれもよろしく>
この葉書は隠していたんですが、数日後に母親に見つかってしまいました。
『これはなに?』と聞かれたけどとぼけていたのね。
そしたら、おふくろが台所から包丁を持ち出してきて、『私も死ぬからお前も死になさい!』とせまってきた。
出典元:水谷豊自伝
あまりの怖さに、はだしで家を飛び出し逃げたそうです。
水谷豊さんにとって、母親は誰よりも怖い存在だったそうです。
そして、母親の本気を感じた水谷さんは、仲間から抜ける決意をしました。
翌日、学校で「もう俺を誘わないでくれ、付き合いをやめるから」とはなしたら、怒っとた仲間たちに囲まれて、「抜けるのなら、指を詰めろ」と言われたんです。
ヤクザの儀式を要求されたが「それはできねぇ」と拒絶した。
そしたら、「こちらで出す相手と二人で殴り合ってくれ」ということになりました。
出典元:水谷豊自伝
放課後に、校舎のトイレの裏で、喧嘩の強そうな子とタイマンをすることになったそうです。
殴り合いを続け、結果的に水谷さんは勝つことができ、悪い仲間たちから抜けることができました。
水谷豊さんは、立川という街について次のように語っています。
基地の街という土地柄や、環境もあったと思いますが、そういう面は早熟だったんですよ。
悪い方向へ行った同級生もいましたね。
出典元:水谷豊自伝
悪友たちも、水谷さんを遊びに誘いに来ることはなくなり、空いた時間をスポーツに集中することにしたそうです。
実は、小学校4年からリトルリーグに入っていたんです。
水谷さんは、夜遊びと同時にスポーツにも励んでいたんですね。
立川のゼネラルクルセイダースというチームで、僕が入った頃は20人以上いたんです。
だけど、2年後、僕が6年になったときには、10人くらいに減ってしまった。
それなのに、東京都の大会で優勝したんですよ。
出典元:水谷豊自伝
小学校6年時リトルリーグ都大会優勝!
水谷豊さんが6年生というと1964年ですね。
12歳で都大会で優勝して、翌年のアメリカで開催される世界大会の出場資格を得たそうなんです!
水谷さんはチームの内野手とピッチャーをやりキャプテンも兼ねていたそうです。
アメリカに行く選手は各チームからの選抜だけど、僕らは優勝チームだから、選ばれる選手も多いはずなんですよ。
僕も打率が良かったので、行けると思った。
だが、リトルリーグには年齢制限があるんです。
上限が12歳で、7月生まれの僕は、世界大会が開かれる1か月前に13歳になってしまう。
それで諦めたんです。
僕は内野手とピッチャーとキャプテンを兼ねていて、当時はスポーツの世界へ行きたいと考えていたので、残念でした。
出典元:水谷豊自伝
リトルリーグは12歳までだから、残念ながら13歳になった水谷豊さんは、アメリカに行けなかったんですね。
水谷豊12歳 芸能界に入ろうと思ったきっかけは?
水谷豊さんは、スポーツの世界以外に、もう一つ興味のあった世界があったそうです。
それが、「テレビの世界」です!
当時の日本は、米国のドラマをテレビで多く放映していました。
水谷豊さんと同年代の方たちはよく見ていたのではないでしょうか?
当時は「ララミー牧場」「ローハイド」「ルーシー・ショー」
「アニーよ銃をとれ」「コンバット!」「ライフルマン」とか「パパは何でも知っている」とか、アメリカのドラマがたくさん放映されていた。
あの世界はどこにあるのだろう、どうしたら、あっちの世界に行けるんだろう、という話をよくしていたんです。
自分もテレビの中に入ってみたかったんですね。
出典元:水谷豊自伝
ララミー牧場って、このころはみんな観てたよね!
ドラマといえばほとんどアメリカから入ってきていた。
Buonasera〜エドちゃん✨今年はテレビ放送70年最初はアメリカのテレビ映画が日本でもたくさん放送されて「ララミー牧場」のジェスを演じたロバート·フラーは日本で大人気で来日もしました〜日本語版「ララミー牧場」の主題歌も素敵聴いてネ〜 pic.twitter.com/5hf5k0Vf1I
— みんなの恋人エドちゃん (@ioecatterina) January 31, 2023
では、水谷さんは何故、テレビの世界に興味をもつようになったのでしょうか?
じつは、家の近くに、米兵たちが住むが”外人ハウス”があったそうです。
その中の一軒に、軍人と暮らす日本人女性がいて、子供がいなかったので、水谷豊さんをとても可愛がってくれたそうです。
家に遊びにいき、テレビを観る機会もあったのでしょう。
ご主人がアメリカに帰国しているときに、「泊りにいらっしゃい」と呼ばれ、泊りにいったりしていた。
僕は、テレビを初めて見たときから、ブラウン管のなかの世界にスゴク興味を持っていたんですよ。
家にあったのは、両側にスピーカーが付いたステレオテレビで、上にプレーヤーが付いていて、付いていて夢のような機会だった。
出典:水谷豊自伝
米軍基地が身近にあったことも影響して、小学生の水谷豊さんは、押し寄せるアメリカ文化に浸り、大きく影響されるようになりました。
可愛がってくれた女性から児童劇団を紹介された!
水谷豊さん、あるとき可愛がってくれた女性が、児童劇団のパンフレットを持ってきてくれたのだとか。
それが、「劇団ひまわり」のパンフレットだったんです。
どこで手に入れたのか分かりませんが、「こういうところに行ったら、その世界に行けるんじゃないかしら」と言って、渡してくれたんです。
出典元:水谷豊自伝
結果的に、この女性の好意が水谷豊さんの人生の転機になりました。
書類選考をへて母親の承諾を得るときにも、夜遊びするよりはマシだと許してくれたそうです。
水谷豊さんは、もう一つの夢であるテレビの世界に、こうして一歩近づくことができました。
水谷豊12歳 劇団ひまわりに入団!1年後にデビュー
水谷豊さんのデビューは、劇団ひまわりに入団して、1年後になります。
最初の出演作品は、ジャニーズの江木俊夫さんが主演の「マグマ大使」でした。
最初の仕事は、劇団に入って約1年後、江木俊夫さんが主役の「マグマ大使」(フジテレビ系列66~67年)でした。
僕は江木さんの友達の役で、1話だけのゲスト出演です」
出典元:水谷豊自伝
「#マグマ大使」(1966) 第9話
水色のシャツを着た子供、まさかと思ったらやっぱり #水谷豊 さんだった
まだ「バンパイヤ」で有名になる前って事か〜。#手塚マンガ に縁があるんだねぇ pic.twitter.com/gggAZk0ZTL
— shinoblox (@BLOXstyle) November 5, 2020
「マグマ大使」は手塚治さんの漫画が原作なんですが、後に水谷豊さんが主演をつとめた「バンパイア」も手塚治さんなんです。
なんか、不思議な縁があるのかもしれませんね。
水谷豊さん「マグマ大使」の頃はまだ子供の顔付きなのですが、バンパイアを演じる頃は大人の顔つきになっています。
水谷豊さんの初主演作品は特撮ドラマ『バンパイア』
ちなみに前年の『マグマ大使』が水谷豊さんのデビュー作 pic.twitter.com/JqAYLTDXMl— 袖ビーム (@sode_beamer) January 27, 2024
「マグマ大使」でデビューした水谷豊さんは、2番目(バンパイアの前)の仕事はなんと舞台でした!
劇団雲の公演(66年)「ドン・ジュアン」に出演
水谷豊さんは、劇団ひまわりの研修生時代にとても優秀だったようですね。
たった1年で「マグマ大使」に出演し、その後すぐに劇団雲の舞台にも出演することができたのですから。
実は、この舞台出演も特別なエピソードがあります。
フランスから来た演出家ジャン・メルキュール氏は、オーディションを行わず、水谷さんの写真だけを見て配役を決めたそうです。
水谷さんは、劇団雲の公演について次のように語っています。
ドン・ジュアンは山崎努さんが初めて主役を演じた芝居で、セリフが多いから台本が分厚いんです。
メルキュールさんには、最初から最後まで3回読んできてください、と言われたけど。
子供には話が長いし、内容が難しいんですよ。
そこで、メルキュールさんには「最後まで3回よみました」と嘘をつき、台本にざっと目を通しただけで稽古にのぞんだ。
出典元:水谷豊自伝
水谷さんの出番は、舞台の終盤に集中していたそうです。
しかし、初日の舞台で大失敗をしてしまいました。
ドン・ジュアンの下僕スガナレルを演じていた小池朝雄さんを怒らせてしまったのです。
忘れられないのは、初日の読売ホールの舞台です。
僕が、小池朝雄さんを激怒させてしまったんです。
おんな遊びがすぎて、ドン・ジュアンに天罰がくだる場面で、召使の僕は、恐怖を感じてガタガタ震えていなければいけないのに。
小池さんの動揺した芝居があまりにも面白くて、吹き出してしまったんです。
深刻な場面なのに、もう笑いが止まらなくて、笑い続けたら、お客さんたちが気づいてこっちを見ているし。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、舞台が終わったあとに小池さんに呼び出され「辞めちまえ!」と怒鳴りつけられたそうです。
水谷豊さんは自分が笑い上戸で、ツボにはいると笑いが止まらないと語っています。
これは子供の頃からそうだったようですよ。
僕、笑うのも、ジョークを言って人を笑わせるのも好きでした。
漫才とか落語、あとスタンダップコメディ、いわゆる漫談をみたり、ラジオで聞いたりするのも大好きでした。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さん、いまでも笑い上戸なんでしょうか。
大人になってからの、笑いエピソードもあるかもしれませんね。
さぁ、初日に大失敗した水谷豊さんですが、大人たちはみんな許してくれたそうです。
水谷豊さんは、東京公演のあとの地方公演にも一緒に行きました。
劇団雲の地方公演で岸田今日子に可愛がってもらう
地方公演は舞台が終わると、俳優やスタッフたちは一部屋に集まって飲み会が始めるそうです。
子供ながら、水谷豊さんもそこに入れてもらっていたそうです。
ある日、その飲み会で岸田今日子さんが、水谷豊さんをかばってくれたのだとか。
水谷さんは、その時のことを次のように語っています。
「子供になんて話をするの!そんな話を聞かせないで!」
と怒ったんです。
「もう、ここにいてはダメ、私たち女優陣のへやにいらっしゃい」
と強くいわれたので、従うことにした。
出典元:水谷豊自伝
岸田今日子さんが怒った理由は、14歳の水谷豊さんの前でスタッフが隠語を使って下ネタを話したことだったのです。
このできごとのあとは、岸田今日子さんがいる女優部屋へ通うことになったそうです。
そこでは、学校の宿題をしたりトランプをしていました。
中学生なので、そこで学校の宿題もするんだけど。
毎晩トランプをやりましょう、と誘われて、岸田さんの布団の中に入るんです。
ある日、布団の中で小咄を聞かせてくれました。
「あのね、蚤の夫婦がいたの。ピョンピョン飛び跳ねる、あの蚤ね。
で、奥さんの蚤がね、旦那さんの肩にもたれて言ったの。
あなた、私たちも落ち着いたら、犬でも飼いましょう、って」
という話です。
男たちが悪い話ばかりするから、子供向けにそんな」話をしてくれたのでしょう。
岸田さんのあの声出し、面白かったですね(笑)
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、岸田今日子さんに可愛がってもらって、無事に舞台を最後までやりとげることができました。
そして、岸田今日子さんとは、8年後に「傷だらけの天使」で共演することになります。
また、演出家さんから、水谷豊さんにメッセージが残されていました。
演出家のジャン・メルキュールは、公演が終了したあと、水谷に、メッセージをi残していた。
「通訳の人から『水谷君はいつかスターになる、と伝えてほしい』と聞きました」
フランスの署名な演出家は、子役の水谷に何を感じたのか。
水谷豊の演技者としての才能を見抜いたのは、メルキュールが初めてである。
出典元:水谷豊自伝
ジャン・メルキュールさんは本当にすごい才能を見抜く力を持っていたんだね。写真を見ただけで水谷豊さんを選んだんだから。
劇団ひまわりも、水谷さんの才能に気づいていたんじゃないでしょうか?
舞台に出演している間に「バンパイア」のオーディションを勧め、受けさせて、800人の中から主演に選ばれているんだから。
水谷豊14歳 初めての主役「バンパイア」
#大好きな昭和特撮ヒーローを貼ろう
窓際部署で紅茶淹れてるのもいい!熱中してるのもいい!
兄きぃ〜もいい!
やはり水谷豊と云えば
実写・アニメ合成作品
バンパイア pic.twitter.com/UWYwTLPH55— ダミアン・K (@katana10541054) September 24, 2023
水谷豊さんは、800人のなかから、バンパイアの主役・立花特平(通称トッペイ)のなかから選ばれました。
オーディションで何をやったのか、細かいことはあまり覚えていないんです。
気がついたらトッペイ少年に選ばれていたという印象です。
カメラテストに呼ばれたときは、トッペイ少年が満月の夜、オオカミに変身するシーンの撮影をしました。
四つん這いになって苦しむ顔の表情を撮ったことを、かろうじて覚えているぐらいです。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さん、デビューして3作目で主演って、俳優として順調なスタートですね。
この「バンパイア」の出演時でも、色々な知られざるエピソードがあるんです。
バンパイアに変身すると、目の色が金色になるのですが、これはコンタクトレンズを使っていたそうです。
バンパイアの金色の目はコンタクト⁈提供した眼科医は水谷豊先生!
水谷豊さんがバンパイアに変身すると、目の色は金色に変わるんですが、このコンタクトを提供してくれたのが、【眼科医・水谷豊医師】なんです!
なんと、プラスチック素材で、コンタクトを日本で初めて作った先生だそうです!
コンタクトレンズの発展に貢献したことから、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれるようになったんです。
水田豊さん、初主演で同姓同名の眼科医・水谷豊先生からコンタクトを提供してもらうなんて、びっくりじゃないですか?
水田豊さんて、なにか不思議なモノをもっているような気がするんですが。
そして、看護師さんからは、次のように言われたそうです。
「あなた、出世するわよ、うちの院長と同じ名前だから」と。
後でわかったのですが、院長先生は、日本で初めてコンタクトレンズを作った水谷豊博士でした。
驚きのご縁ですね。
出典元:水谷豊自伝
このバンパイアは全26回にわたって放映されました。
途中で、手塚治さんの「虫プロ」がお金を使い過ぎてパンク!他のプロダクションが引き継いで最後まで放映されたそうです。
バンパイアは手塚さんの「虫プロ」が製作していて、地方ロケもあったし、お金を使い過ぎてパンクしちゃたんですよ。
撮影中止と聞いたときは、とてもショックでした。
それでしばらく休んだあと、僕が中学3年生の頃かな、長門裕之さんと津川雅彦さんのご兄弟がつくったプロダクションの「人間プロ」が受け継いで製作することになった。
長門さんとはそのときに知り合って、お付き合いが始まりました。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、「バンパイア」が始まったときは14歳でしたが、撮影が終了したときは16歳になっていました。
バンパイアはアニメと実写の合体という、当時では珍しい映像で話題になりました。
水谷豊さんの演技も注目されたそうですが、まだまだ世間に名前を知られるほどではありませんでした。
そんな水谷さんですが、じつは、バンパイアが休止しているときに、映画デビューをしているんです。
「青春の海」(西村昭吾朗監督 67年)で映画デビュー!
青春の海は、吉永小百合さんと渡哲也さんが共演した映画です。
水谷豊さんは、生徒役で出演していました。
この頃は、映画が楽しくて仕方なかったそうです。
吉永小百合さん渡哲也さん主演、西村昭五郎監督「青春の海」主演の小百合さんは中学教師役なんだけど、子役時代の水谷豊さんが出演!!!右端の生徒!!生徒の主役は小倉一郎さんだった。立ってる生徒!おふたりは大人になってからも共演作多数だよね。 pic.twitter.com/uSqUBt3dJ3
— 稲輪吉泰 (@yoshiyasuinawa) June 14, 2024
「あのころは 、映画に出るのが新鮮で、楽しくて仕方なかった」
映画に強く惹かれるようになったのは、アメリカン・ニューシネマの傑作とされる「俺たちに明日はない」(アーサー・ベン監督68年)を観たことがきっかけだった。
兄が「凄い映画をやっているから、観てみな」と勧めたくれたので、立川の映画館にいったんです。
良かったですねえ、ウォレン・ペイティとフェイダナウェイのカップル。
ひたすら破滅に突き進んでいく。
自己破滅型というか、そういう主人公が多くて、惹かれましたね。
自分も何かを壊していきたいという思いがあったので、それを描いた映画を見るとひきつけられるんですよ。
出典元:水谷豊自伝
この、60年代後半から70年代初頭にはアメリカから日本に人気映画がたくさん入ってきました。
- 俺たちに明日はない(アーサー・ベン監督68年)
- 卒業(マイク・ニコルズ監督68年)
- 真夜中のカーボーイ(ジョン・シュレシンジャー監督69年)
- 明日に向かって撃て!(ジョージ・ロイ・ヒル監督70年)
水谷豊さんは、アメリカ映画を観ることにより刺激を受け、70年に入るとつぎつぎに、映画出演していきました。
バツグン女子高生 森田健監督(1970年)
両親を事故で失った高校生の川村弓子(吉沢京子)は叔母の良恵(久保菜穂子)が居る田舎に住むことになり、地元の岡田高校に転校する。
突然都会の美少女が現れ、擦り寄る男子生徒と妬む女子生徒! |
その人は女教師 出目昌信監督(1970年)
出演:岩下志麻 三船史郎 神田隆 一の宮あつ子 中北千枝子 戸浦六宏 水谷豊 中沢治夫 北城真記子 清水元
竹内亮(三船史郎)は新宿のデモに参加して、警官に追われているところを速水マキ(岩下志麻)に助けられます。その日以来、亮にはマキの面影が忘れられぬものとなりました。二人の再会は意外に早く実現します。 亮の通う高校にマキが教師として赴任してきたからです。 だが、マキは亮を無視し、型通りの授業を続けていきます。 |
新・高校生ブルース 帯盛 迪彦監督(1970年)
童貞をもてあましている高校生3人組の健次(内田喜郎)、正樹(水谷豊)、亘(菅野直行)は1か月後の学園祭までに童貞を捨てるべく“フラレタリア同盟”を結成し、手当たり次第に女性に声をかけていく。
そんな中、健次は幼なじみの京子(関根恵子)にアタックするが、、。 |
水谷豊さんは「マグマ大使」で芸能界にデビューしてから、順調に進んできました。
劇団雲の舞台出演、ドラマ「バンパイア」で初主演、吉永小百合さんと渡哲也さんが主演の「青春の海」で映画デビュー。
そして、3本連続で映画出演!
自分でのぞんだ世界で、活躍していく準備は整ってきました。
ところが、水谷豊さんはこの頃から、業界の醜さを見聞きする機会が増えていたんです。
そのころからですね、どうもこの世界は違う、芸能は自分が進む道じゃないな、もっと別な世界があるはずだと思い始めたのは。
大人というのは、どうしても上からモノを言ってくるでしょう。
力でねじ伏せようとする。
感性が違うし、なにかにつけてパワハラされる。
あそこへ行きたいと憧れて入った世界だったけど、そういう人たちがいると、この世界で過ごすのが辛くなりますよね。
現実を見たという感じもあったと思います。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊18歳 芸能界に嫌気がして大学進学を目指す!
水谷豊さんは、芸能界を辞めて大学へ行こうと考え始めていました。
そして、そのことを所属しているプロダクションの社長に相談したんです。
僕は、「劇団ひまわりの」のあと、16歳のときから、「小日向企画」というプロダクションに所属していたんです。
そこの社長に相談したんです。
「芸能の仕事を辞めて、大学に進学しようと考えている」と。
社長は「豊ちゃん、それは賢明な考えだよ。この世界は第一線でずっといけるというのは、ほとんどないことなんだ」
「90パーセント以上の人が落ちていく世界だからね。君が仕事を辞めて大学を受験するというなら、僕は応援して送り出すよ」と話してくれた。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、アメリカの大学へ進学しようと決意しました。
米軍基地の近くに住んで、アメリカ文化の影響を受けたこともあるのですが、米国に友人がいたということも決意した理由だったそうです。
先生にも話、留学のための準備を始めました。
ところが、ここで思いがけないことが起こってしまったのです。
父の会社が経営破綻して、アメリカ留学どころではなくなったんです。
それで、日本の大学を受けることにした。
なぜか、僕はネット上では法政大学や東京商船大学を受験したことになっていますが、まったく別の大学で、学部は政経学部でした。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、受験には自信があったようです。
試験が終わった当日に、担任の先生に「受かりました」と連絡を入れたそうです。
しかし、残念ながら結果は不合格で受験失敗でした。
水谷豊さんは、生れて初めての挫折を味わうことになったのです。
水谷豊さんは、ペーパー試験には自信があったのだろうね、もしかしたら面接で落とされたのかな?
まぁ、これは私の想像ですが、この当時は学生運動が盛んだったから、水谷さんの破滅思考というか、破壊型の思考は大学側に非常に嫌われる考え方だからね。
しかしこれは、あくまでも私の想像でしかないので、真実はわかりません。
水谷豊18歳 人生初の挫折と家出
水谷豊さん人生で初の挫折でした。
しかし、大学受験の浪人は珍しいことではなかったので、最初は気楽な感じでいたそうです。
浪人生活を覚悟していたものの、友人たちは新たな一歩を踏み出していた。
自分はこのまま家にこもって受験勉強をするしかないのか、、。
5月に入ってからは精神状態がおかしくなり、衝動的に家を飛び出したんです。
ナップザックに洋服だけ詰めて、ひたすら歩きました、方向音痴のこのぼくが。
出典元:水谷豊自伝
立川を出て、ただひたすら歩き、八王子、そして高尾山についたそうです。
日が暮れて寒くなり、持ってきた服を重ね着をして、夜通し歩き相模湖近くまでたどり着きました。
しかし、地図を作ってみましたけど、立川から相模湖まで徒歩8時間くらいてでましたが、途中で休んだりしながら10時間以上は歩き続けたのでしょう。
相模湖の近くまで来て、やっと車が止まってくれたそうです。
水谷豊さん、たまたま通りかかった車に乗せてもらうことができて、大助かりでした。
「お兄ちゃん、なにしているの」と聞かれたので「散歩です」と答えたら、「俺は釣りに行くんだけど乗らない」と言え荒れて、釣り場まで乗せてもらいました。
で、そのおじさんが釣りをしている間に、僕は隣で眠ってしまった。
昨夜一睡もしていないので。
目覚めたのは夕方近くで、また日が暮れていた。
出典元:水谷豊自伝
男性が水谷豊さんに家まで送ってあげるよと言ったそうです。
でも、家出中なので送ってほしいとも言えないし、困っていたところ、今日は家に泊まるかって言ってくれたのだとか。
帰り際、おじさんに「お兄ちゃん、家はどこ、送っていくよ」と言われたけど、いや、送られたら困るのよね。
家出しているんだから。
でも、僕の様子を見て、なにかおかしいと気づいていたんでしょう。
おじさんが「じゃあ、今日はオレの家に泊まるか」と言って、八王子の自宅まで連れていってくれたんです。
出典元:水谷豊自伝
水谷さん、なんと優しい人にであえたのでしょうか、自宅につれていってくれ、1泊させてくれたんですね。
車にのせてくれたおじさんの家に一泊させてもらう
水谷豊さんは、泊めてもらい翌日朝、朝食を食べたあとに、男性から2000円渡してもらったそうです。
しかし、ホントに優しい人に出会えてよかったよね。
危ない人に出会っていたら、何があったかわからない。
1泊して朝食を食べたあとで、「じゃあいきます」と挨拶したんです。
そしたら「お兄ちゃん、金ないんだろう」と2000円渡してくれて、親切な人でした。
いったん立川市に戻り、
高校時代の同級生が勤めていたボウ リング場へ顔を出した。
そこでコーラを飲みながらボウリングに興じ、支払いを終えたとき には、残額が数百円になっていた。
次に向かったのはバチンコ店である。 「おじさんからもらった大事な金なのに、 どういう神経をしていたんでしょうね。 出典元:水谷豊自伝
立川に戻ったのは良いけど、ボウリングしてのこりが数百円て、なんにも言えませんね。
後先考えない、破滅型の行動なのかな?
でも、これは若さゆえのなのでしょう。
しかし、水谷豊さんの運の良さは半端なかった!
でも、バ チンコをやると、出ちゃったんですよ、玉が。
信じられないくらい一杯。 店内に流れていた のが、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」で、
あの曲を聞くと、今でもパチ ンコ店の情景を思い出しますね。 それで、玉を換金したら、
6000円くらいになったのか な。 その日は銭湯に行ってから、新聞紙を沢山買って、
それを敷いたり、くるまったりして 公園で野宿しました。 家に帰る気はないからね。
出典元:水谷豊自伝
しかし、公演で野宿して、翌日またパチンコするか⁈
これも、水谷豊さんの行動パターンなのかもしれませんね。
そして、なんとこの日もパチンコに勝っちゃうです!
次の日は10時からパチンコをして、こんな ことあるのかってくらい、また玉が出たの。
もう、
好きなものを食べて、オールナイトの映 雨も観ちゃってね。次の日はさすがに無理かと思ったけど、 また一杯玉が出て、3日間で合 計1万6000円くらいになった。
おじさんの2000円が8倍に増えたんですね」 その金を家出の軍資金に、彼は電車に乗り、山中湖へ向かった。
中学の頃、山中湖のレス トハウスに泊まったことがあり、 いい所だという印象が残っていたからだ。 出典元:水谷豊自伝
しかし、水谷豊さんのこの運の良さは尋常じゃないですね。
しかも、また家出を続行って何を考えていたのでしょう。
こんどは、山中湖までいきました。
本格的な家出をした水谷豊さんは、電車に乗って山中湖まで来てしまいました。
彼の家族は大騒ぎになっているでしょうが、そんなことは気にせず、山中湖に着いた水谷さんはアルバイト探しを始めました。
周辺を歩いてアルバイトを探すうちに、
3階建ての大きなレストハウスを見つけた。 「山中湖サービスセンター」という建物で、広い駐車場があり、 そこに観光バスや乗用車が 停まっている。 支配人とアルバイトの交渉をすると、
人手不足ということで、雇ってくれる ことになった。 1階にある店で土産物を売ったり、
レストランの手伝いをしたり、バスの運 転手を控室に案内するという仕事である。 「夏休みになると大学生のアルバイトがたくさん来て、
結構忙しかったですね。そこで住み 込みのアルバイトを2ヵ月くらい続けて、7月11日、 僕の15歳の誕生日に、ふとお袋のこと を思い出したので、家に電話を入れたんです」 出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんにとって、母親は一番怖い存在なので、叱られるの覚悟で電話したのかな?
しかし、強くったりしなかったそうです。
「電話したときはね、わりと平気な感じだったんですよ。「
今まで一体何をしてたんだ」と 責めたりはせず、「元気だったの? こっちのことは気にしなくていいんだよ。 でも、そろ そろ帰ってきたら」なんて、普通の会話だった。
僕が、「
8月一杯という約束で働いている から、すぐには無理」と言ったら、お袋が、「ちょっと、 京都の叔母ちゃんの具合を悪くし てもいいんじゃないの」と。 それでレストハウスの方に、「
すみません、京都にいる叔母が 危篤という連絡があったので」と話して、 辞めさせてもらいました」 あとで分かったことだが、
母は息子が電話してきたあとで髪を染め、白髪を隠していた。 「そういう(母の)思いやりには、 当時の僕は気付かなかったんです。 出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんは、これで自宅に戻ることになりました。
父親は会社が破綻し失職中なので、大学進学のためにアルバイトを探し始めたそうです。
水田豊:アルバイト感覚で俳優に復帰!
芸能界に戻る気持ちはなかったようですが、日テレプロデューサー小坂敬さんから声がかかったんです。
水谷さんが芸能界から離れていることを知らなかったのでしょうか、「いい役があるんだけど」とオファーをしてきたそうです。
バイトをするにしても、知っている仕事の方がいいかと思って、撮影所がある京都へ行ったら、ある日、富本監督から「豊さんね、今日撮るシーンがうまくいったら、俳優を続けていいと思う」
「ダメだったら、また大学を受験しなさい」といわれたの。
出典元:水谷豊自伝
水谷豊さんが出演したのは「火曜日の女」シリーズの「あの子が死んだ朝」(日テレ系)というサスペンスだったそうです。
出演したのは、「火曜日の女」シリーズの「あの子が死んだ朝」(
日本テレビ系列 2年)というサスペンスだった。 水谷の役は、
暴力団から麻薬を盗んで逃げるときに新聞配 達の中学生を突き飛ばし、 結果的に殺してしまう不良グループの一人である。 グループは、 父親が出張中で母親しかいない水谷の家に逃げ込む。
麻薬の窃盗で暴力団から、少年の殺し で警察から追われることになったグループは、 家に籠城するしかなかった。 次の日に撮影所で日向ぼっこしていたら、
監督がやってきて、何を言うか と思ったら「君はやっぱり大学へ行きなさい」だって(笑)」 富本監督は、それまで水谷に向かってなんども「
どうして君のような人が生まれたんだろ う」と呟いていた。 水谷には意味が分からない言葉だったが、
監督は周囲に「彼は俳優を続 けたらスターになる」と洩らしていたという。
フランスの演出家ジャン・メルキュールと同 じく、水谷の将来に可能性を感じていたのだ。 出典元:水谷豊自伝
この「火曜日の女シリーズ・あの子が死んだ朝」は評判がよかったそうです。
水谷豊さんの熱演を見て、すぐに次のオファーがありました。
それが、「太陽にほえろ・マカロニ刑事登場」への出演です。
この出演で萩庭健一さんと共演して、20代で最初の出世作「傷だらけの天使」のレギュラー出演に繋がっていくんです。
まとめ
バンパイアも水谷豊!!٩(ˊᗜˋ*)و #ももラジ795 pic.twitter.com/wnmOXm0PB1
— うさぎ使い (@eXDIjhrSG66ensH) November 19, 2021
水谷豊さんの10代はデビュ作のマグマ大使からはじまって、劇団雲の舞台に出演、そしてバンパイアで主演。
映画にあこがれ映画デビューし、その後、連続3本の映画に出演!
しかし、このころから業界のみにくさを目のあたりにして、芸能界をやめようと思いはじめました。
水谷豊さん、デビューから次々と仕事は来ていたけど、映画に出演したことにより、業界へのイメージがすっかり変わったのでしょう。
芸能界を離れて、大学受験1本に絞っていたのに、アメリカ留学はできなくなり、日本の大学は不合格という人生初の挫折を味わうことになりました。
3ヶ月の家出を経て、来年の受験を目指そうというときに、テレビ出演のオファーがあり、アルバイト感覚で俳優に復帰!
水谷豊さんは根が真面目なので、アルバイト感覚でも演じるときは一所懸命にやるんです。
復帰した最初の仕事も評判が良く、次の仕事につながりました。
さぁ、10代が終わり怒涛の20代の幕開けです!
水谷豊さんのプロフィールや10代~70代の今!まとめはこちらをご覧ください。