この記事では、日本の名優・仲代達矢さんについてご紹介しています。
若い頃から現在に至るまでの活動やその影響について、映画や舞台での功績はもちろんのこと、私生活でのエピソードも交えながらお伝えします。
仲代さんの魅力を改めて感じていただける内容になっていますので、ぜひお楽しみください。


仲代達矢の若い頃
仲代達也さんは1932年12月13日に東京で生まれ、1952年に俳優座演劇研究所に入りました。
その頃は演技の基礎をコツコツと学びながら、いろいろな舞台で経験を積んでいました。
仲代達也さんの演技スタイルはリアリズムを大事にしていて、観客のみなさんに強く心に残るような演技を目指していたんです。
若い頃は、演技に対する熱い気持ちと新しいことを追い求める心をいつも持ち続けていました。
そして、少しずつ日本の映画界で大切な役割を果たすようになったんです。
#映画好きが勧めるシリーズ作品
仲代達也版『人間の条件』全6部3作品戦後すぐの戦争映画とあって凄まじい迫力!
仲代さん映画初主演作で小林正樹監督も「まさに天才」と評したその演技は圧巻ですが、僕としては田中邦衛がそのキャリアにおいて最も悲惨な死を遂げるシーンも脳裏に焼き付いてます。 pic.twitter.com/LEVO6RysgP— ソドム対ゴジラ (@hvmKML52QSO0Gcn) April 17, 2025
若き日の仲代達矢とは?
仲代達矢さんの若い頃は、俳優としての土台を作る大切な時代でした。
俳優座研修所を3年で卒業し、1955年に俳優座に入団した仲代さんは、そこで厳しい演技の訓練を受けました。
俳優座時代の仲代さんは、戦争をテーマにした作品や人間の心の痛みを描いた作品に多く出演しました。これらの作品に取り組むことで、仲代さんの演技の腕はどんどん上達していきました。
仲代さんの特徴は、豊かな感情表現でした。
観客の心をつかむ力があり、見る人を作品の世界に引き込むのがとても上手でした。
そんな仲代さんの若い頃の姿は、現在でも多くのファンから愛され続けています。
仲代達矢デビュ前秘話
俳優座の養成所に入った仲代さんは、昼間は演技の勉強に打ち込み、夜はバーで働いて生活費を稼ぐという忙しい毎日を過ごしていました。
養成所の3年生になると、仲代さんは映画のオーディションを積極的に受けるようになります。
しかし、当時の映画界では爽やかで清潔感のある俳優が人気で、なかなか合格することができませんでした。
当時の仲代さんは少し疲れた様子で、鋭い眼光を持っていたため、時代の求める俳優像とは異なっていたんです。
そのため、オーディションではなかなか良い結果を得ることができませんでした。
仲代さんは、舞台で演技力を磨き、自分の存在感を観客に認めてもらうよう集中しました。
仲代さんは徐々に頭角を現してきて、映画にも主演で出演していくようになったんです。
仲代達矢さんが20代だった1950年代後半から60年代初頭にかけて、同世代で映画界に登場し始めた俳優たちを見てみると、仲代さんと同じく演劇や映画の世界で個性を発揮していた人たちが何人もいます。
🎥 仲代達矢さん(1932年生まれ)と同世代で20代に活躍した映画俳優たち
俳優名 | 生年 | 活動開始 | 特徴・代表作 |
---|---|---|---|
丹波哲郎 | 1922年 | 1950年代 | 『砂の器』『大霊界』など。重厚な演技と霊的テーマで独自路線。 |
三國連太郎 | 1923年 | 1947年 | 『飢餓海峡』『楢山節考』など。社会派・文芸作品で活躍。 |
高倉健 | 1931年 | 1956年 | 『網走番外地』『幸福の黄色いハンカチ』など。硬派なイメージで人気。 |
石原裕次郎 | 1934年 | 1956年 | 『太陽の季節』『嵐を呼ぶ男』など。日活のスターとして若者文化を牽引。 |
勝新太郎 | 1929年 | 1950年代 | 『座頭市』シリーズで一世を風靡。型破りな演技で知られる。 |
仲代さんは文学的・社会的なテーマの作品に多く出演し、舞台出身の演技力で注目されたタイプです。
一方、石原裕次郎さんや高倉健さんは映画会社のスターシステムの中で若者文化やアクション映画を牽引していました。
それぞれが違う方向で映画界に貢献していて、まるで同じ山のふもとから違う道を登っていったような感じ。
仲代さんはその中でも、演劇的な深みと哲学的な視点を持ち込んだ存在だったんです。

仲代達矢の初期作品とその影響
仲代達矢さんの代表的な初期作品として、映画『切腹』や『人間の条件』などがあります。
これらの作品によって、仲代さんの優れた演技力が多くの人に知られるようになりました。
特に『切腹』では、登場人物の心の中の複雑な思いや迷いを見事に演じ、その演技が高く評価されました。この作品をきっかけに、仲代さんは一気に注目される俳優になったのです。
そして「切腹」、とんでもない映画だった…観終わった後、あまりに凄過ぎて動悸が止まらなかった。こんな映画があんのか、すごいな。そして仲代達也さんのトークショー。91歳にもなるのにあまりにもお若くて元気でびっくり。しかも超絶イケボ。当時仲代さん30歳とはビックリの貫禄。 pic.twitter.com/OhvDB2zu9R
— ドースー黒光り自由艇長 (@do_su0079) December 3, 2023
『切腹』や『人間の条件』といった作品は、その後の日本映画界にも大きな影響を与えました。そして、これらの名作によって仲代達矢さんの名前は、日本映画史に確実に刻まれることになったのです。

『切腹』
- 公開年月日: 1962年9月16日
- キャスト:
- 仲代達矢(津雲半四郎役)
- 三國連太郎(斎藤勘解由役)
- 丹波哲郎(沢潟彦九郎役)
- 岩下志麻(津雲美保役)
- あらすじ: 物語は寛永年間を舞台に、生活困窮に陥った浪人・津雲半四郎(仲代達矢)が井伊家の屋敷に「切腹」を申し出たことを発端に展開します。しかし、この申し出は単なる困窮浪人による「ゆすり行為」と見られがちで、物語は過去の同様の事件や家臣たちの意図が絡み合い、衝撃の展開を迎えます。武士道の虚飾を暴きながらも、その内に潜む残酷さを鋭く描写しています。小林正樹監督が手掛け、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。
『人間の条件』(全6部構成)
- 公開年月日:
- 第1・2部: 1959年1月15日
- 第3・4部: 1959年11月20日
- 第5・6部: 1961年1月28日
- キャスト:
- 仲代達矢(梶役)
- 新珠三千代(梶の妻、美千子役)
- 佐田啓二、淡島千景、三島雅夫、有馬稲子 他
- あらすじ: 主人公・梶(仲代達矢)が戦争を通して「人間の条件」とは何かを問い続ける壮大な叙事詩的物語です。満州の鉱山で人道的な労務管理を目指す梶の葛藤、戦地での過酷な体験、そして敗戦後の彷徨を描いています。戦争の非人間性や人間の尊厳について深く掘り下げ、全6部を通じた累計9時間超の長編で日本映画の金字塔的存在です。
どちらも社会派の名匠・小林正樹監督が手がけており、仲代さんのキャリアの中でも特に評価の高い作品です。

仲代達矢が舞台で輝いた瞬間
仲代達矢さんは映画だけでなく、舞台の世界でもその素晴らしい才能を見せました。
1955年、俳優座養成所卒業。
同年『幽霊』で初舞台を、そしてその時の演技で注目を浴びました。
特に有名なのは、1975年、舞台『令嬢ジュリー』『どん底』で芸術選文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞したことです。
『令嬢ジュリー』について 『令嬢ジュリー』は、スウェーデンの有名な劇作家ストリンドベリが書いた戯曲です。
19世紀末のスウェーデンが舞台となっており、貴族のお嬢様であるジュリーと、彼女の父親に仕える執事のケストランとの間に生まれる複雑な愛と憎しみの物語を描いています。
仲代達矢さんは、この作品で執事のケストラン役を演じました。
SNSでは、仲代さんが60歳の時の舞台「令嬢ジュリー」についての投稿もありました。
ストリンドベルイ「令嬢ジュリー」のジャンは仲代達矢にぴったりだと思っていたけど、とうとう生の舞台は観られなかった。60歳の仲代さんのジャンはまだまだ枯れていなくて良かった。といってもトークショーで観た彼も枯れてはいないけど。髭の全くない仲代さん久しぶり。 pic.twitter.com/EzVJbYufCs
— steward (@stewardtokyo) November 12, 2018
『どん底』について 『どん底』は、ロシアの劇作家ゴーリキーが書いた戯曲です。
19世紀末のロシアにある貧しい人々が住む地域を舞台に、それぞれ異なる事情を抱えた登場人物たちの人生を描いた作品です。
仲代達矢さんは、この作品でペペルという役を演じました。
これらの舞台で仲代さんが見せた演技は、観客の心を強く惹きつけました。
舞台に立つ仲代さんの存在感は非常に力強く、観客は誰もが彼の演技の世界に引き込まれてしまうほどでした。
このような舞台での活動は、仲代さんの俳優人生において大変重要な意味を持っています。
舞台での経験が、彼の演技力をさらに磨き上げることにつながったのです。
仲代達矢の現在の姿
現在92歳を迎えた仲代達矢さんは、今もなお第一線でご活躍されています。
演技への情熱は少しも色あせることなく、近年も新たな舞台に挑戦し続けています。

先日は能登半島へ#仲代達矢 さんのお芝居を観に!#のと鉄道#能登中島 駅#無名塾#能登演劇堂
穴水駅前では瓦礫の割れ目からタンポポが咲いていました
そしてお芝居のほうは…生きる勇気を貰った2時間半✨仲代達矢さん92歳でこのセリフ量に歌もこなす…
凄すぎて言葉にならない… pic.twitter.com/SA9VhNjkqq— 登龍亭獅鉄(シテツ) (@shitetu4102) June 13, 2025
その姿は若手俳優たちに大きな刺激を与え、演劇の世界での存在感と影響力は今も変わらず輝きを放っています。
世田谷区岡本の急坂上にある仲代達也主宰の無名塾。この急な坂、無名塾があるから無名坂っていうんだって pic.twitter.com/Nd0phSqYcf
— 鈴木伸子 (@cxcat20) April 21, 2019
現在の仲代達矢とその活動
仲代達矢さんは、今も舞台や映画に積極的に出演しています。
最近では出演した舞台が大きな話題を呼び、多くのファンがその演技を楽しみにしています。
今日は無名塾のドキュメント「仲代達也役者を生きる」を観てきた。
仲代さんの膨大なエネルギー、次世代を育てる熱意はすごい。
役者て演技が上手いことが大事なんじゃない、と何となく感じた。
トークゲストの松崎さんは普通にしてると気のいいお兄さん。一緒に片付けしたのも楽しいかった。 pic.twitter.com/omVl4XSPG1— ぷよぷよくん (@pecopon20) March 9, 2019
年齢を感じさせない力強い活動は、観客に深い感動を届け続けています。
その姿勢は演技への真剣な思いを物語っており、ファンにとっても大きな励みとなっています。
仲代達矢が語る妻について
仲代達矢さんは、奥さま宮崎恭子さんとの結婚生活が非常に特別なものだったと語っています。
昔は「パンテーン」というヘアトニックがあったのですね。シオノギ製薬から出ています。
イメージキャラクターは仲代達矢さんと、奥様の宮崎恭子さんでしょうか。 #昔の広告 pic.twitter.com/tq8SLKP2cF— あちこ (@achiko_movie) March 23, 2022
1957年に結婚し、演劇の世界で互いを支え合い、「無名塾」を共に創設しながら充実した日々を送っていました。
残念ながら、1996年に宮崎恭子さんが膵臓がんで亡くなりましたが、それ以降、仲代さんは再婚はせず、一筋に宮崎さんとの思い出を胸に生きていると言われています。
仲代さんは「無名塾」の活動を続けながら、亡き妻が遺した意志を守り、塾の未来を創り続けています。
宮崎恭子さんの存在が、人生と演劇活動にどれだけ大きな影響を与えたか、これは俳優としての成功以上に深い意味があるようです。
ずいぶん時間を時間をかけて描いたのだろう。
ひとつひとの役柄が動き出しそうにいきいきしていた。
「これからもずっとずっとよろしく」
私はこの言葉に最敬礼したい気持ちだった。
この言葉通り彼女と一緒に生きていけたらどんなにいいだろうに。
出典元:仲代達矢 『遺し書き』
宮崎さんとの絆があまりに強かったため、再婚については考えていないことも語られています。
その人生の姿勢から、どれだけ一途で誠実な人なのかが伝わってきますね。
仲代達矢の息子や養女について
仲代達矢さんには実子はいませんが、養女が2人います。
養女について
- 仲代奈緒さん(女優)
- 1973年12月11日生まれ。
- 宮崎恭子さん(仲代さんの妻)の妹である元アナウンサー・宮崎総子さんの娘。
- 4歳のときに仲代夫妻の養女となり、1996年のNHK大河ドラマ『秀吉』で仲代さんと親子共演。
- その後は舞台を中心に活動し、歌手としても活躍しています。
- もう一人の養女(非公表)
- 2019年頃に養女となった30代の女性。
- 仲代さんのマネージャーとして10年以上支えてきた人物で、無名塾でも活動しています。
- 仲代奈緒さんも了承のうえで家族として迎えられたそう。
息子と噂された人物について
一部で「仲代達矢さんの息子は俳優の滝藤賢一さんでは?」という話があるけど、これは誤解。
滝藤さんは仲代さんが主宰する俳優養成所「無名塾」の門下生で、師弟関係にあるだけ。
顔立ちが似ていることもあって、そんな噂が立ったみたい。
仲代さんは、血縁にこだわらず、演劇を通じて深い絆を築いてきた人なんです。
まるで舞台の上で育まれる親子のような関係…それもまた素敵な家族のかたちだと思います。
仲代達矢の作品
仲代達也さんには、映画や舞台などでたくさんの出演作があります。
特に仲代達矢さんの映画キャリアは、日本映画史そのものと言ってもいいほど豊かで深いんです。
以下に代表的な出演作を時系列でまとめてみました。
🎬 仲代達矢さんの代表的な映画作品(時系列)
公開年 | 作品名 | 監督 | 特徴・備考 |
---|---|---|---|
1959–1961 | 人間の條件(全6部作) | 小林正樹 | 仲代さんの出世作。戦争と人間の尊厳を描いた大作。 |
1962年 | 切腹 | 小林正樹 | 武士道の虚構を暴く名作。カンヌ映画祭審査員特別賞受賞。 |
1964年 | 怪談 | 小林正樹 | 小泉八雲の怪談を映像化。幻想的な美術と演技が話題に。 |
1965年 | 日本のいちばん長い日 | 岡本喜八 | 終戦前夜の緊迫した政治ドラマ。 |
1980年 | 影武者 | 黒澤明 | 武田信玄の影武者を演じる。カンヌ映画祭グランプリ受賞。 |
1985年 | 乱 | 黒澤明 | シェイクスピアの『リア王』をベースにした壮大な戦国絵巻。 |
1993年 | 午後の遺言状 | 新藤兼人 | 老境の女性との静かな交流を描く。 |
2002年 | たそがれ清兵衛 | 山田洋次 | 脇役として出演。時代劇の新たな潮流を感じさせる作品。 |
2015年 | 日本のいちばん長い日(リメイク版) | 原田眞人 | 元の作品とは異なる視点で描かれた終戦ドラマ。 |
2022年 | 役者として生きる 無名塾第31期生の4人 | 稲塚秀孝 | 無名塾の若手を追ったドキュメンタリーに出演。 |
2025年 | いもうとの時間 | 不明 | ナレーションを担当。最新作として注目。 |
仲代さんの演技は、時代とともに変化しながらも、常に「人間とは何か」を問い続けているような深さがあるんです。
まるで風に揺れる稲穂のように、静かだけど力強い存在感がつねにあるんです。
演劇での重要な公演
仲代達矢さんは、演劇においても数多くの重要な公演に出演しています。
仲代さんが俳優座時代(1955年〜1979年)に出演した舞台の中から、特に代表的な作品を時系列で紹介します。
俳優座時代は演劇人生の原点とも言える時期で、演技の幅を広げながら新劇界に大きな足跡を残しました。
@notreadmillno 読売新聞 時代の証言者 仲代達矢さん(5)より
俳優座養成所時代の仲代さん(円内)、右隣が佐藤慶さん、その右が中谷一郎さん、2列後ろ中央が平幹二朗さん pic.twitter.com/IhQDTuZWxn— すぬうぴい (@snoopy1009kid) June 7, 2015
仲代達矢さんの俳優座時代の代表舞台(時系列)
公演年 | 作品名 | 備考 |
---|---|---|
1955年 | 幽霊(イプセン作) | オスワル役で新劇新人賞を受賞。俳優座入団直後の抜擢。 |
1958年 | 令嬢ジュリー | ストリンドベリ作。心理描写の深さが話題に。 |
1964年 | ハムレット | シェイクスピアの名作。仲代さんの知的な演技が光る。 |
1964年・1968年 | 東海道四谷怪談 | 古典と新劇の融合。怪談劇でも存在感を発揮。 |
1970年 | オセロ | シェイクスピア劇での重厚な演技が高評価。 |
1974年 | リチャード三世 | 紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。野心と狂気を見事に演じる。 |
1974年 | 友達(安部公房作) | 不条理劇の傑作。現代演劇への挑戦。 |
1975年 | どん底(ゴーリキー作) | 毎日芸術賞・芸術選奨文部大臣賞を受賞。俳優座退団直前の代表作。 |
1978年 | オイディプス王 | ギリシャ悲劇に挑戦。運命と苦悩を体現。 |
この時期の仲代さんは、古典から現代劇、不条理劇まで幅広く挑戦していて、まさに「演劇の探求者」って感じだったんです。
とくに『リチャード三世』や『どん底』は、彼の演技力が爆発していた舞台で、観客の記憶に深く刻まれました。
俳優座時代の仲代さんは、まだ若くて“モヤ”って呼ばれてた頃だけど、その瞳の奥にはすでに演劇への情熱と覚悟が燃えてたんです。
無名塾での舞台出演
代表的な舞台公演を時系列で紹介していきます。
仲代達矢さんの代表的な舞台公演(時系列)
公演年 | 作品名 | 会場・備考 |
---|---|---|
1975年 | 無名塾創設 | 妻・宮崎恭子さんと共に若手育成のために設立。以降、舞台活動の中心に。 |
1980年代 | リア王 など | シェイクスピア作品を中心に、重厚な演技で注目。 |
1990年代 | 肝っ玉おっ母と子供たち(初演) | ブレヒト作の反戦劇。仲代さんの代表的舞台作品のひとつ。 |
2021年 | 左の腕 | 元やくざの老人役。88歳での主演。引退をほのめかすも… |
2022年 | いのちぼうにふろう物語 | 妻・宮崎恭子さんの脚本。一膳飯屋の主人役で大立ち回りも披露。 |
2023年 | バリモア | 米国の名優ジョン・バリモアの晩年を描く一人芝居。歌や踊りも披露。 |
2025年5月 | 肝っ玉おっ母と子供たち(再演) | 能登半島地震復興公演として、能登演劇堂で熱演。92歳での出演。 |
2025年10月 | 幽霊(イプセン作) | 無名塾による能登演劇堂公演。仲代さんは演出・監修に関与。 |
仲代さんは、年齢を重ねてもなお舞台に立ち続け、セリフ・歌・踊り・感情表現すべてに魂を込めて演じているんです。
とくに最近の「肝っ玉おっ母」は、反戦と鎮魂の思いがにじむ圧巻の舞台でした。
まるで、舞台の上に人生そのものを刻んでいるような演技…その姿は、風に揺れる古木のように、しなやかで力強いんです。
これらの公演は、仲代達矢さんのキャリアにおいて重要な位置を占めており、観客に深い感動を与えました。
いままでの舞台でのパフォーマンスは、今でも多くのファンに記憶されています。
仲代達矢と無名塾の関係
仲代達矢さんは、1975年に奥様の宮崎恭子さんと無名塾を設立し、後進の育成に力を入れてきました。
無名塾は、仲代さんと宮崎恭子さんの演技哲学を基にした教育機関であり、多くの若手俳優がここで学びました。
仲代さんは、演技の技術だけでなく、演技に対する姿勢や情熱を伝えることを大切にしています。
無名塾は、仲代さんの影響を受けた俳優たちが活躍する場となっています。
仲代達也さん主演の無名塾の演劇「肝っ玉おっ母と子供たち」
先週土曜日に観に行ってきました(о´∀`о)出演ボランティアの皆さまやチケット等整理のボランティアの皆さまのお陰で気持ちよく観劇できました
改めてありがとうございます#マイあさ #富山 pic.twitter.com/Npj9GASQpJ— ❁ YUKICO ❁ (@fukuyukiaiai1) June 13, 2025
仲代達矢の思い出
仲代達矢さんは東京・目黒五本木で1932年(昭和7年)12月13日に生まれました。
母親は豪放磊落な性格をしていたそうです。
外見は美人で「五反田小町」と呼ばれていたようです。
「ドロボー!ドロボー!耳をつんざくような母の声。懸命に走る母親の背中にくくられて、私はひどく揺られていた。
汗の匂いとただならぬ物騒な空気。母は男を追いながら、声を限りに叫んでいた。
「ドロボー!ドロボー!」
母は男勝りの豪気な気性で、盗まれたものを取り返すべく、女だてらに泥棒を追いかけていた。
母親・愛子は家計の助けにタバコ屋を開いて、小さな商いをしていた。
男は母親の目を盗んで、タバコが入ったガラス容器を一つ、かっさらって駆け出したのだった。
これが、私がこの世に生れ落ちて最初の記憶だ。
出典元:仲代達矢『遺し書き』
仲代さんの父親は、背が高く、がっしりしていて、面長ないわゆる役者顔をしていたそうです。
性格は無口で神経質な性格だったようです。
仲代達矢さんは二人の遺伝子を受け継いで高身長、強い目力、整った顔立ちで役者にピッタリだったようです。
ただ、意外なんですが仲代さんは本来内気で恥ずかしがりなんだそうです。
こんなこと聞いてもホントに!って思うかもしれませんが自伝の中で次のように語っていました。
私は本来、人見知りで引っ込み思案なのに、いざ人前で演じるときの度胸のよさは、まさにおふくろの血。今も元気で舞台に立ち、若手を育成できるほど丈夫な体ももらいました。
出典元:からだひとつ
仲代達矢さんが、人見知りで引っ込み思案なんて、映画や舞台を観ている限り想像もできないんですが、ホントのようです。

若い頃の思い出の写真
仲代達矢の若い頃の写真は、彼のキャリアの歴史を物語っています。
これらの写真は、彼の演技に対する情熱や、当時の仲代の姿を思い起こさせる貴重な記録です。

仲代達矢さんは養成所時代に黒澤明監督の『7人の侍』にエキストラとして出演しています。

仲代達矢さんは『7人の侍』に歩行者役で出演するまで、なんと9回もオーディションに落ちているんです!
しかも、『7人の侍』に出演してただ歩くだけのシーンでOK!が出るまで1日かかったそうです。
その時の心境を仲代達矢さんは次のように語っています。
仲代達矢さんは『7人の侍』に歩行者役で出演するまで、なんと9回もオーディションに落ちているんです!
しかも、『7人の侍』に出演してただ歩くだけのシーンでOK!が出るまで1日かかったそうです。
その時の心境を仲代達矢さんは次のように語っています。
作品は「七人の侍」だった。黒澤監督の作品は「姿三四郎」
からすべて見ている。私は ともかく私は初めて面通しに通った。
「え、なかだい、だって? 重箱読みじゃないか。「なかよ」か「なかしろ」に直せ」 「なかだい、です」
腰に刀をさした。 く腕っぷしの強い侍を探すというシーンで、
撮影は朝から始まった。 シーンは映画の冒頭、 私は画面下手から上手へとただ歩いて通り過ぎる役である。道行 それまで赤毛物の舞台ばかりやっている私は、「七人の侍」
で初めて着物を着、初めて 黒澤監督の 作品に出られることを光栄に思った。 やり直し。ただ歩いて行くだけのシーンなのに、
黒澤監督は私のところでダメを出す。 「あ、ダメダメ、カット」 ダメ、ダメ
と助監督が言った。 「こいつには、メシを食わせるな!」
昼になった。 無性に腹が立ってきた。 (俺がダメだというなら、
誰かほかの奴にやらせりゃいいじゃないか!) (チクショウ、チクショウ)
私は歩き続けた。
OKが出たのは、午後三時を回っていた。
私は歩くだけでこんなに大変なんだというこ とを思い知った。 「七人の侍』が封切りになると、私は映画館に飛んで行った。
出演者の字幕に自分の名前 を探したが、どこにもなかった。しかも、 五秒どころか上半身が一瞬映っただけだった。 正直、あの日の屈辱感と辛さを思うとガックリした。 しかし今になるとよくわかる。
刀を腰にさしたときは腰で歩くものだ。
私は歩き方を全く知らなかった。わずか一秒使 うために、 新人の私に黒澤監督という大監督が丸一日近く時間をさいて下さっ たのだ。も ったいないような贅沢な時間をいただき、有り難い話だったのだ。 出典元:仲代達矢 『遺し書き』
仲代達矢さんは当時はよほど悔しかったのか、2度と黒澤監督の映画には出ない!
そんな気持ちになったそうです。

どうです、このハムレットの脚の線。一気に走らせた筆の勢いに、
恭子の 自信と達成感が見えるように思えるのです。 実は私、ハムレットに扮しタイツ姿で脚をそろえて立つと、
内ももの間が 開いてしまいます。日本人にありがちなO脚で、 まるでカトンボのよう。り りしい王子ハムレットなら内ももがぴたりとくっつくはずが、 O脚ではどう にもサマになりません。 「私に任せて!」
こういうときは恭子の独壇場です。彼女は当時、
広く出回っていた「ハマ フォーム」というマットレスを、 私の脚の隙間を埋めるような形に薄く2枚 カット。両内ももに当て、上からタイツを2枚はかせました。 すると、なん と脚がぴたりと合い、O脚はたちまち解消。どうです、このハムレットの脚の線。一気に走らせた筆の勢いに、 恭子の 自信と達成感が見えるように思えるのです。 実は私、ハムレットに扮しタイツ姿で脚をそろえて立つと、
内ももの間が 開いてしまいます。日本人にありがちなO脚で、 まるでカトンボのよう。り りしい王子ハムレットなら内ももがぴたりとくっつくはずが、 O脚ではどう にもサマになりません。 「私に任せて!」
こういうときは恭子の独壇場です。
彼女は当時、
広く出回っていた「ハマ フォーム」というマットレスを、 私の脚の隙間を埋めるような形に薄く2枚 カット。 両内ももに当て、上からタイツを2枚はかせました。
すると、なん と脚がぴたりと合い、O脚はたちまち解消。 出典元:からだひとつ
俳優座時代の恭子さんとのエピソードですね(^^♪
ファンにとっても、彼の若き日の姿を見られることは大きな喜びであり、彼の成長を感じることができます。
仲代達矢が語る過去のエピソード
仲代達矢さんは、過去のエピソードを語ることが多く、その経験は多くの人々にとって貴重な教訓となっています。
仲代さんの話には、演技に対する情熱や、仲間との絆が感じられ、聴く人々に感動を与えます。
仲代さんのエピソードは、彼の人間性を深く知る手助けとなります。
仲代達矢とファンからの注目
仲代達矢さんは、今でも多くのファンから注目されています。
演技や人柄は、多くの人々に愛されており、ファンとの交流も大切にしています。
仲代さんの存在は、演技の世界においても特別なものであり、ファンにとっても大きな励みとなっています。
活動は、今後も多くの人々に影響を与え続けるでしょう。
仲代達矢と日本の映画界
仲代達矢がもたらした影響
仲代達矢さんは、日本の映画界に多大な影響を与えました。
演技スタイルや作品選びは、後の世代の俳優たちにとっての手本となり、仲代さんの影響は今でも色濃く残っています。
仲代さんの存在は、日本映画の発展に寄与し、彼の作品は今でも多くの人々に愛されています。
時代を超えた仲代達矢の魅力
仲代達矢さんの魅力は、時代を超えて多くの人々に支持されています。
演技は、世代を問わず共感を呼び起こし、観客に深い感動を与えます。
仲代さんの存在は、演技の世界において特別なものであり、作品は今でも多くの人々に影響を与え続けています。
仲代達矢を支える仲間たちの存在
仲代達矢さんの成功には、支える仲間たちの存在が欠かせません。
仲代さんの周囲には、尊敬しあい、共に成長してきた仲間たちがいます。
これらの仲間たちとの絆は、演技に対する情熱をさらに高める要因となっています。
まとめ
仲代達矢さんの若い頃から現在までの活躍を時系列でご紹介してきました。
自分の性格を、内気で人見知りで引っ込み思案と語っていた仲代さん、奥様の宮崎恭子さんと立ち上げた無名塾で、92歳になる現在も舞台に立ち続ける姿は、観る者に感動を与えています。
これからも舞台に立ち続け、元気な姿を見せてほしいと思います。