水谷豊の若い頃からの俳優人生を振り返る!知られざるエピソード満載!

水谷豊 若い頃と今の画像

水谷豊さんといえば「相棒」を思い浮かべる方が多いでしょう。
「相棒」はシーズン1~シーズン22まで、スタートから24年続いているので、そのイメージが強いのは当然です。

ところが、水谷さんは13歳の子役時代から、色々な役を演じてきました。

水谷豊さんは、「13歳でドラマの主役」「人生の挫折」「俳優を辞めたくて仕方なかった!」「大親友の急死!」など、おおくのエピソードがあります。

そこで、水谷豊さんの10代〜70代の今!各年代で出演したドラマや映画を振り返り、画像とエピソードなどをまとめてみました。

チョッピー
相棒は24年も続いているんだ!ねぇ、水谷豊さんて若い頃はどんな俳優さんだったの?
のびお
若い頃は不良役が多かったんだ。だけど、20代で演じた教師役のドラマで、視聴率46.7%を記録したんだよ!これで一躍スターになったんだ。

水谷豊とはどんな俳優?略歴とプロフィール

水谷豊、2024年現在の姿
出典元:水谷豊自伝
名前 水谷豊(みずたにゆたか)
生年月日、 星座、 干支 1952/7/14、かに座、辰年
血液型 A型
出身地 北海道
身長 168cm
プロフィール 主な出演作品

  • テレビドラマ「バンパイヤ」
  • テレビドラマ「傷だらけの天使」
  • テレビドラマ「探偵 左文字進」シリーズ
  • 映画「HOME 愛しの座敷わら」
  • 映画「王妃の館」

その他多数

主な受賞歴:

  • 第5回日本アカデミー賞 優秀主演男優賞
代表作 熱中時代 シリーズ(1978~1981、 1987、1988、1989)少年H(2013)相棒(2000~)
個人公式サイト https://trysome-bros.jp/yutaka-mizutani/

 

水谷豊さんは北海道の出身ですが、小学2年生のときに父親の仕事の都合で東京に引っ越しました

新しい住居は、多摩地区の中部に位置する米軍立川基地(現在の自衛隊立川飛行場)の近くだったそうです。

1960年春のことである。自宅の真上を米軍の輸送機が飛び交い、騒音がひどい。ベトナム戦争が始まっており、翌61年にはグローブマスターを頻繁に目撃するようになった。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
米軍基地の町で育って、この環境が芸能界を目指すきっかけになったのかな。

水谷さんの家の近くには、軍人と暮らす日本人女性がいて、可愛がってもらっていました。

家に遊びにいき、テレビを見ながらいろいろな話をしたそうです。

「僕はテレビを初めて見たときから、ブラウン管の中の世界に凄く興味をもっていたんです。

スイッチを入れたら、モノクロの映像が現れるのが本当に不思議でね。

どうしたら、あっちの世界に行けるんだろう、という話をよくしていたんです。自分もテレビの中に入ってみたかったんですね。

出典元:水谷豊自伝

のびお
テレビの世界に興味を持ち始めたんだ。

水谷豊若い頃【10代】米軍基地の街で育ち、「バンパイア」で主演!

テレビの世界に興味をもちはじめ、近所の女性の家に遊びに行くたびに「どうやったら、あっちの世界に行けるのかな」そんな話をしていたそうです。

話を聞いた女性は、ある日、児童劇団のパンフレットを持ってきてくれた。

「どこで手に入れたのか、分かりませんが、『こういうところに行ったら、その世界に行けるんじゃないかしら』と言って、渡してくれたんです」

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは、パンフレットに載っていた児童劇団(劇団ひまわり)に入団し、芸能界に入ることになります。

チョッピー
芸能界に入るきっかけは、この女性との出会いなんだね。

水谷豊:デビューは13歳!14歳でドラマの主演

劇団に入った翌年、ジャニーズの江木俊夫さんが主演する『マグマ大使』にゲスト出演しました。

左側奥が江木俊夫さん、手前左が水谷豊さんです、面影がありますよね。

そして2番目の仕事が「劇団雲」の公演(66年)喜劇「ドン・ジュアン」モリエルール作でした。

マグマ大使のあと劇団雲の公演に出演

劇団雲公園「ドン・ジュアン」1966 昭和41年9月9日~10月2日(東京 読売ホール)
出典元:現代演劇協会 デジタルアーカイヴ

演出家ジャン・メルキュールはオーディションせず水谷豊さんの写真を見ただけで配役をきめたそうです。

のびお
写真を見ただけできめたとは!なにかひらめきがあったのかな?

山崎努さんが初めて主役を演じた芝居で、セリフが多いから台本が分厚いんです。メルキュールさんには、最初から最後まで3回読んできてください、と言われたけど、子供には話が長いし、内容がむずかしいんですよ。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは演出家に「3回読みました」と嘘をつき、ざっと目を通しただけで稽古に臨んだそうです。

水谷さんの役はドン・ジュアンの召使ラ・ヴィオレットで、出番は終幕近くに集中していました。

そして、初日の公演中に大失敗!

忘れられないのは、初日の読売ホールの舞台です、僕が、小池(朝雄)さんを激怒させてしまった。

ドン・ジュアンが雷に打たれて息絶えるとき、スガナレル役の小池朝雄さんの動揺する演技がおかしすぎて笑ってしまったのです。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは初日に失敗しましたが、大人の俳優たちは許してくれたそうです。

この舞台の出演者には橋爪功さん、小池朝雄さん、名古屋章さん、高橋昌也さん、岸田今日子さん、結城美恵子さんがいました。

水谷豊さんは東京での本公演の後、地方公演にも参加。

ところが、男性陣は水谷豊さんに下ネタや卑猥な話をして喜んでいたそうです。

それを見た岸田今日子さんが、水谷豊さんを女優部屋に呼び、一緒にトランプをして遊んでくれたそうです。

中学生なので、そこで学校の宿題もするんだけど、毎晩トランプをやりましょう、と誘われて、岸田さんの布団の中に入るんです。

小咄も聞かせてくれました。

「あのね、蚤の夫婦がいたの。あのぴょんぴょん飛び跳ねる、あの蚤ね。で、奥さんの蚤がね、旦那さんの肩にもたれて言ったの。あなた、私たちも落ち着いたら、犬でも飼いましょう、って」話です。

男たちが悪い話ばかりするから、子供向けにそんな話をしてくれたのでしょう。岸田さんのあの声だし、面白かったですね(笑)

出典元:水谷豊自伝

岸田今日子さんとは、水谷豊さんが20代前半の頃に出演した「傷だらけの天使」で再び共演することになります。

ところで、演出家のジャン・メルキュールは、公演終了後に通訳を通じて水谷豊さんに「水谷君はいつかスターになる」とメッセージを残していました。

ジャン・メルキュールは、水谷豊さんの才能を初めて見抜いた人だったのです。

そして、水谷さんは舞台に出演しながら、テレビドラマのオーディションにチャレンジしていました。

チョッピー
振り返れば、演出家の予言は当たったね♪
のびお
そうだね、何か感じるものがあったんだろうな、水谷さんは舞台に出ながら、オーディションにも応募したんだな。

14歳で手塚治虫作「バンパイア」で初主演

劇団雲の舞台に出演の合間に、テレビドラマバンパイアのオーディションにも応募していました。

そして、1968年14才のときに大きなチャンスをつかむことになります。

800人の応募があったバンパイアのオーディションのなかなから、主役の立花特平(通称トッペイ)に大抜擢されたんです。

特撮ドラマ『バンパイヤ』(1968年)で800人の応募者の中から主役・立花特平(通称トッペイ)に大抜擢され、順調に俳優人生をスタートさせていく。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
劇団に入って1年ちょっとで主演を射止めるなんて、才能があったんだね!

バンパイアは手塚治虫の「虫プロ」が作成していたのですが、お金を使い過ぎてパンクしてしまいました。

撮影が中断した時期があったのですが、途中から長門裕之さん、津川雅彦さんの「人間プロ」が引き継いで再開します。

水谷豊さんが14歳の時に始まったバンパイアは、終了したときには、16歳になっていました。

 

水谷さんは「バンパイア」が中断しているあいだ、吉永小百合さんと渡哲也さんが共演する青春映画「青春の海」(1967年、西村昭吾郎監督)生徒役で映画デビューを果たしたんです。

そして、映画デビューしたあと、アメリカ映画に強く惹かれるようなってきました。

特に「俺たちに明日はない」を観て、映画に強く惹かれるようになり、映画に出るのが楽しくて仕方なかったと語っています。

「俺たちに明日はない」あの映画は、兄が「凄い映画をやっているから、観てみな」と勧めてくれたので、立川の映画館へ行ったんです。よかったですね、ウオーレン・ペイティとフェイ・ダナウエイのカップル。ひたすら破滅に突き進んでいく。

出典元:水谷豊自伝

高校入学後の水谷豊さんは、アメリカの映画に強く影響を受けるようになりました。

「俺たちに明日はない」「卒業」「真夜中のカーボーイ」「明日に向かって撃て」など自己破滅型の主人公多く、そのような映画にすごく惹かれたそうです。

水谷豊さんはそんなアメリカ映画のなかで、とくに俳優、ロバート・レッドフォードやポール・ニューマンに憧れました。

映画の主人公のように、自分も今の状況に安住しようとは考えなかった。破滅しても壊したいという気持ちの方が強かったです。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは1970年に「バツグン女子高生」「その人は女教師」「新・高校生ブルース」の3本の映画に連続で出演しました。

しかし、このころから業界の醜い面を見聞きするようになり映画現場の大人たちのようにはなりたくないと感じるようになったそうです。

その頃からですね。どうもこの世界は違う、芸能は自分が進む道じゃないな、もっと別な世界があるはずだと思い始めたのは。

なにかとパワハラされるようになり、あそこへ行きたいと憧れて入った世界だったけど、そういう人たちがいると、この世界で過ごすのが辛くなりますよね。

現実を見たという感じもあったとおもいます。

出典元:水谷豊自伝

水谷さんは業界が嫌になり、高校を卒業したら芸能界を辞めようと決意しました。

そして、アメリカの大学に留学したいと、プロダクションの社長に相談したんです。

「豊ちゃん、それは賢明な考えだよ。この世界は第一線でずっと行けるというのは、ほとんどないことなんだ。90%セント以上の人が落ちていく世界だからね。君が仕事を辞めて大学を受験するというのなら、僕は応援して送り出すよ。」と話してくれた。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
芸能界に幻滅したんだね、あこがれて入ったのに。でも、アメリカ留学なんてカッコイイ!

アメリカ留学への準備を始めたが!

水谷豊さんはプロダクションを辞め、アメリカ留学の準備を始めていましたが、 父の会社が経営破綻して留学どころではなくなりました。

しかたなく、日本の大学を受けることになりましたが、自信があったにもかかわらず、不合格となってしまったんです。

水谷豊さん、初めての挫折を味わうことになりました。

「父の会社が経営破綻して、アメリカ留学どころではなくなったんです。それで日本の大学を受けることにした。なぜか、僕はネット上で法政大学や東京商船大学を受験したことになっていますが、全く別の大学で、学部は政経学部でした。」

受験には自信があった。試験が終わった当日、担任の先生に「受かりました」と電話を入れたほどだ。

だが結果は不合格でした。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
芸能界に入ってから順風満帆だったものね!受験も自信があっただけにショックだったんだ。

受験失敗!初めての挫折で家出!

水谷豊さんは初めての挫折で、衝動的に行く当てもなく家出しました。

「ナップザックに洋服だけ詰めて、ひたすら歩きました。方向音痴のこの僕が」

歩いているうちに八王子につき、まだこんなところかと思い、さらに頑張って歩くと、高尾山に入った。

出典元:水谷豊自伝

夜通し歩き続け、相模湖付近までたどり着いたとき、車に乗った男性に声を掛けられ、1泊させてもらうことになります。

おじさんの家には奥さんと赤ちゃんがいた、夕食をごちそうになり一泊し、朝食を食べた後で、「じゃあ行きます」と伝えたら「お兄ちゃんお金ないんだろ」と言われ2000円を渡してくれ、優しい人でした。

出典元:水谷豊自伝

のびお
水谷さん優しい人に出会えてよかったね。

一度立川に戻るが家には帰らず

水谷豊さんは、男性から2000円を受け取ってから一度立川に戻りました。

家に帰るつもりはなかったので、友達が働いているボーリング場で時間をつぶして遊んでいたそうです。

いったん立川に戻り、友人が勤めていたボウリング場に顔をだしたんです。
そこで でコーラを飲みながらボウリングに興じ、支払いを終えたとき 残高が数百円になっていた。
次に向かったのはパチンコ店である。 おじさんからもらった大事な金なのに、どういう神経をしていたんでしょうね。

出典元:水谷豊自伝

パチンコ屋に行って遊んだら、数百円が6000円になったそうです!

その後、銭湯に行き新聞紙を大量に買い、夜は公園で野宿をしたのだとか。

そして、翌日もパチンコ屋に行き、またもや出玉が大量に!好きなものを食べ、オールナイトの映画館に一夜を過ごし、翌日もパチンコ屋へ、この日も大勝ちしなんと3日で16000円に!

「6000円くらいになったのかな。銭湯に行ってから、
新聞紙を沢山買って、それを敷いたり、くるまったりして公園で野宿しました。家に帰る気はないからね。」
「次の日は10時からパチンコをして、こんなことあるのかってくらい、 また玉が出たの。」
「もう、好きなものを食べて、オールナイトの映画も観ちゃってね。」
「次の日は さすがに無理かと思ったけど、また一杯玉が出て、3日間で合計1万6000円位になった。」
「おじさんの2000円が8倍に増えたんですね」

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
ちょっと水谷さん、パチンコに使っちゃダメでしょ!でも3日連続で勝つって凄すぎ!

パチンコで勝ったお金で家出続行!

水谷豊さんは、パチンコで勝ったお金を家出の軍資金にして、電車に乗り山中湖へ向かいました。

中学の頃、山中湖のレストハウスに泊ったことがあり、いい所だという印象が残っていたからだそうです。

山中湖に行って、住み込みバイトできる場所を探そうと思ったのでしょうか?

山中湖周辺を歩いてアルバイトを探しているうちに、大きなレストハウスを見つけた。

「山中湖サービスビスセンター」という建物で、広い駐車場があり、そこに観光バスや乗用車が止まっている。

支配人とアルバイトの交渉をすると、人手不足ということで、雇ってくれることになった。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは、山中湖のレストハウスのアルバイトが2ヶ月たったころ、ふと家を思い出し電話したそうです。

母親から、叱られるでもなく「そろそろ帰ってきたら」と言われ家に帰ることになりました。

じつは、母親は心配のあまり髪の毛が白髪になってしまっていたそうです。

「電話したときはね、わりと平気な感じだったんですよ。「今まで一体何をしてたんだ」と 責めたりはせず。「元気だったの? こっちのことは気にしなくていいんだよ。でも、そろ そん帰ってきたら」なんて、普通の会話だった。

僕が、「8月一杯という約束で働いている から、すぐには無理」と言ったら、お袋が、「ちょっと、京都の叔母ちゃんの具合を悪くし てもいいんじゃないの」と。

それでレストハウスの方に、「すみません、京都にいる叔母が 危鶏という連絡があったので」と話して、辞めさせてもらいました」

あとで分かったことだが、母は息子が電話してきたあとで髪を染め、白髪を隠していた。 「そういう(母の)思いやりには、当時の僕は気付かなかったんです」

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
数か月の家出だったけど、お母さんに心配かけ過ぎだよ!

水谷豊18歳:アルバイト感覚で俳優に復帰!

翌年の受験準備のためにアルバイトを探している最中に、日本テレビプロデューから「19歳の役を探している」と連絡が入り、バイト感覚で俳優にもどることになります。

「いい役があるんだけど、ちょっと監督にあってくれないか」

そう声をかけてきたのは、日本テレビ大物プロデュー・小坂敬だった。小坂は「火曜サスペンス劇場」や「火曜日の女」シリーズを企画制作した人物である。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは「火曜日の女」シリーズの「あの子が死んだ朝」(日本テレビ)の出演でした。

演じる役は、不良グループの一員です。

暴力団から麻薬を盗んで逃げるときに、新聞配達の少年をグループのだれかが突き飛ばし、結果的に殺してしまう設定です。


2005年09月23日
[あの子が死んだ朝]
(全6話)

1972年・大映テレビ・1話60分・カラー
演出:富本壮吉 出演:加藤治子 水谷豊 緑魔子 高城丈二 沖田駿一 高橋昌也 テレサ野田 早川雄三 麻衣ルリ子 佐久間三雄 杉山光宏 二瓶康一 諸口旭 滝譲二

平凡で幸せな生活を送っていた主婦・志津子の家に、息子の友人の不良少年グループが居つき始めた。マリファナをめぐって暴力団から追われているらしい。一方、息子の卓也は少年殺害の容疑者として刑事に追われていた…。中流家庭に突然舞い込んだ不幸に対して、ただ一人勇気を持って立ち向っていく主婦の姿を描いたサスペンス・ドラマ。

出典元:チャンネルネコ

水谷豊さんの熱演で「あの子が死んだ朝」の評判がよく、次の仕事につながったようです。

のびお
俳優に復帰し。すぐに評判が良くなるなんて、やはり才能があるんだよ!

「放映が終わったあと、すぐに新しいアルバイトの話(笑)がきたんですよ」

次の作は同じく日本テレビ系の「太陽にほえろ」でした。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
アルバイト感覚の俳優で、当時の大人気ドラマ「太陽にほえろ」に出演したんだ!

「太陽にほえろ第一話」犯人役で出演

水谷豊「太陽にほえろ」第一話犯人役
出典元:太陽にほえろ第一話

太陽にほえろ第一話「マカロニ刑事登場」(萩原健一)に犯人役でゲスト出演することになりました。

プロデューサーの岡田 晋吉(おかだ ひろきち)氏が、水谷豊さんの演技を観て犯人役に抜擢したそうです。

 

太陽にほえろプロデューサー岡田
出典元:プロデューサーも夜討ち朝駆け

岡田さんは、当時の水谷豊さんを次のように語っています。

「『炎の青春』と『飛び出せ!青春』に出ている水谷豊を見て、10代の若者が持つ発散できないようなイライラ感を表現するのがうまいな。

出典元:newsポストセブン

第1話はショーケン(萩原健一・享年68)が演じるマカロニ刑事の登場シーンから始まります。

そしてクライマックス、犯人役の水谷豊さんとの真剣勝負が、最高に盛り上がりました。

チョッピー
若い頃の水谷豊さんて、イケメンだね!長髪でカッコイイ。

「クライマックスシーンは印象的でしたね。

後楽園球場で犯人役の豊を、マカロニ刑事のショーケンが走って追いかけるのですが、観客席は広くて段差があるので、途中で休んだり、いい加減に走っても編集でうまくつなぐことができるのですが、2人とも全力疾走!

懸命に走る彼らを見て、『このドラマは当たる!』と、私は確信したのです」

出典元:newsポストセブン

岡田 晋吉プロデューサーに気に入られて、「太陽にほえろ」30話にも犯人役で出演しています。

そして、「太陽にほえろ」は、マカロニ刑事からジーパン刑事に代わっていきます。

「太陽にほえろ」ジーパン刑事にゲスト出演

水谷さんが「生涯の友」と語る俳優がいる。『太陽にほえろ!』で共演した松田優作さん(享年40)だ。

まだ新人だった松田優作さんのサポートをしてもらうために、岡田プロデューサーが水谷豊さんをキャスティングしたそうです。

子役からやってた水谷は、松田優作に先輩への挨拶の仕方、カメラの立ち位置、芝居を始めるタイミングなど、さりげない気遣いがつたわり、あっという間に打ち解けて一緒に飲みに行ったり、食事に行ったりしていました。

出典元:水谷豊自伝

このとき松田優作さん(23歳)水谷豊さん(20歳)でした。

岡田プロデューサーは二人の関係について、つぎのように語っています。

「当時、優作はほぼ新人の状態。豊は優作より3才年下ではありますが、キャリアとしては先輩でしたから、優作に芸能界とはどんなところなのかを教えるための、いわば教育係も兼ねて、再び犯人役に起用したんです」 2人はすぐさま意気投合。「豊ちゃん」「優作ちゃん」と呼び合い、2人で旅行に出かけるような関係になっていく。

出典元:newsポストセブン

のびお
松田優作さんとは生涯の友というくらいだから、よほど気が合ったんだね。そして、このあと「傷だらけの天使」に出会うわけだ

水谷豊若い頃【20代】「傷だらけの天使」「熱中時代教師編」に出演!

水谷豊さんの出世作は1974年「傷だらけの天使」です

東京・麹町にあった日本テレビの喫茶店で、ショーケン(萩原健一)とプロデューサーが話していて“ショーケンとコンビを組むのは誰がいいか”という話になったそうです。

そのとき、ショーケン(萩原健一)が『水谷くんでいこうよ』と、指名したそうです。

誠実だし、ひたむきだし、いつも一生懸命やる子だった。だから、推薦したんだ。豊ちゃんはいつも一生懸命だった。必死になってセリフを覚えてくると、ぼくが時々、全然違うことを言うじゃない。

そうしたら、あの目をまんまるにしちゃってさ。あのころ、豊ちゃんは役者をやめようと思っていたそうだ。そこへ「傷だらけの天使」の話が来て、やめるのはこれをやってからにしよう、と考え直したんだって。

出典元:「ショウケン」

水谷豊さんは不良役で多くのドラマに出演していたにも関わらず、「傷だらけの天使」に参加するときに「これが終わったらやめる」つもりだったそうです。

しかし、周りがそれを許さなかったようです。

傷だらけの天使が終了後は、次々とオファーがきたようです。

チョッピー
まわりが辞めることを許さなかったんだ、大人気だから仕方ないね

「傷だらけの天使」後に次々と出演!

水谷豊さんは「傷だらけの天使」後、多くのオファーを受けました。

「おそば屋ケンちゃん」「太陽ともぐら」「俺たちの勲章」などにゲスト出演し、さらに「ほおずきの唄」や「傷だらけの天使」を撮影した監督に呼ばれ、京都で「影同心Ⅱ」を撮影しました。

同時期に東京で「夜明けの刑事」に出演するため、新幹線で東京と京都を往復しながら忙しい日々を送っていたんです。

不良役のイメージが強かった水谷さんですが、「ほおずきの唄」(1975年)では日本舞踊のお師匠さん役を演じ、おねえ言葉を使うという新たな挑戦をしました

実は水谷さん、この役のオファーには、演じるかどうか迷ったそうです。

「ほおずきの唄」のチーフディレクターが水谷さんの不良役以外の可能性を感じ、「俺の愛妻物語」(1978年)大竹しのぶさんとのダブル主演に起用し、人気ドラマとなりました。

また、NHKの「土曜ドラマ」や「山田太一シリーズ 男たちの旅路」(1976年~1979年)では、ガードマン役としてレギュラー出演し、桃井かおりさんや鶴田浩二さんと共演しました。

チョッピー
この忙しさは凄すぎじゃない!
のびお
やはり、傷だらけの天使のインパクトが凄かったんだね!出演依頼が殺到してるものね。

鶴田浩二と共演 芝居に対する姿勢に感銘!

水谷豊さんは、鶴田浩二さんが台本をもたないで立ち稽古をする姿に感銘し、リハーサルの前にセリフを全て頭に入れるように心がけるようになったそうです。

そして、今では台本を持たないで撮影に臨むことを実践しています。

いやあ、びっくりしました。本読みのあとの立ち稽古はまだリハーサルなので、普通は台本を持ってやりますよね。そこからセリフを覚えながら、本番を迎える。でも、鶴田さんは本読みが終わったら、台本は一切持たないんですよ。

それで、かおりちゃんと二人で「鶴田さんが持たないのに、俺たちはこれでいいの?と話なし合って、台本を持たないでやったらめちゃくちゃになってしまった(笑)

出典元:水谷豊自伝

のびお
セリフを全部頭に入れてくるんだな。水谷さんは今でもそうみたいだね、相棒の長いセリフを一気にしゃべるそうだよ。さらに、この時期に映画にも出てるんだ。

映画「青春の殺人者」で最優秀主演男優賞!

NHKドラマに出演しながら、同時に映画「青春の殺人者」(1976年)にも出演しました。この映画は実際の事件をもとにした作品なんです。

水谷豊さんは青春の殺人者」で最優秀主演男優賞を受賞し、映画自体も第50回キネマ旬報ベストテン日本映画第一位、日本映画監督賞、脚本賞を受賞しました。

また、1977年には「赤い激流」で宇津井健さんと共演し、最終回で37.2%の視聴率を記録したんです。

この数字は赤いシリーズで最高記録を更新しました。

僕ね、当時25歳くらいだったけど、将来は宇津井健さんみたいな大人になりたいと思っていたの。大好きなひとでした。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
「青春の殺人者」実話の映画化で、最優秀主演賞!なんか怖そうな映画だけど、画像がリアルに似合ってる。
のびお
赤い激流では憧れの宇津井健さんと共演したんだね、でも水谷さんはここからもっと人気がでるんだよ!

水谷豊:20代ドラマ熱中時代で46.7%の高視聴率

水谷豊さんは20代に入り、次々に人気ドラマに出演していきます。

中でも、いままでの水谷さんのイメージを一変させる、「熱中時代教師編」は視聴者の心をわしづかみにしました!

「ほおずきの唄」「愛妻物語」で水谷豊を起用したチーフディレクターは、水谷豊主演で「熱中時代教師編」(78~79年)の企画を立てますが、日本テレビ役員のほぼ全員が反対だったそうです。

ほとんどの役員が反対したと聞きました。理由は二つあって、一つは、不良のイメージが強い水谷豊に教師役ができるのか。もう一つが、小学生の子供たちを半年間も拘束してどらまがつくれるのか、ということでした。絶対無理だと。

出典元:水谷豊自伝

熱中時代教師編は発言権のある、たった一人の鶴の一声で企画が成立したドラマであった。

第一制作局長の鶴の一言で企画が通った。

「ディレクターがどうしても水谷豊をつかってドラマを作りたいと言っているんだ。やらせればいいだろう。」

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんが子供好きであることを見抜いていたディレクターは、この企画は絶対に成功すると確信していたそうです。

その結果、『熱中時代教師編』の最終回は驚異的な視聴率46.7%を記録し、水谷豊さんを一躍スターに押し上げました。

 「僕は子供が好きで、子供と芝居するのも好きなんですよ。子供と動物は苦手という俳優も いますが、僕は一緒に遊ぶのも好きだし、芝居をしているうちに、子供たちの世界から何か 出てくると、楽しくて仕方がない」

出典元:水谷豊自伝

のびお
熱中時代教師編は日テレの役員がほぼ全員が反対したんだ!この企画が通らなかったら、今の水谷豊さんは、いなかったかもしれないね!

水谷豊さんは熱中時代教師編で、不良のイメージから大きくかわりました。

そして、熱中時代は教師編から刑事編に移っていき、水谷豊さんは歌手としての活動も始めるんです。

熱中時代刑事編で主題歌を歌う

熱中時代も、教師編から刑事編に移っていきます。

水谷豊さんはドラマの主題歌を歌い、教師編とは違う一面を見せてくれました。

そして、俳優以外にも歌手としても活動をはじめたんです。

79年「熱中時代・刑事編」の主題歌「カリフォルニア・コネクション」(作詞・阿木燿子/作曲・平尾昌晃)が大ヒット!歌番組「ザ・べストテン」で4週連続1位を獲得した。それまで1位だったサザンオールスターズの名曲「いとしのエリー」を抜いたのだ。

出典元:水谷豊自伝

「ザ・ベストテン」は生放送でしたので「熱中時代」の撮影中に現場から中継していたそうです。

サザンを抜いて1位になるなんて、歌手としての才能もあったのでしょうか?

4週連続1位に輝いた「カリフォルニア・コネクション」5週目がなかったのは本人が辞退したからでした。

『ザ・ベストテン』は生放送だったんですよ。放送時間はいつも「熱中時代」の撮影中だったので、よみうりランドのプールとか、生田スタジオ中継していたんです。

ドラマの本番中なのに中断して、歌番組のリハーサルをやって出演するわけ。生放送だから緊張するし、気持ちの切り替えも必要だった。

そんな状態で歌うのが苦しくなって、4週目で出演を終わりにしてください、とお願いしました。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
水谷さん歌手としても大人気だね!そして熱中時代刑事編では最初の奥さんとの出会いもあったみたい♪

熱中時代刑事編:最初の奥さんと出会

水谷豊さんは、ドラマ『熱中時代刑事編』で共演したアメリカ国籍の女優、ミッキー・マッケンジーさんと出会い、交際を始めました。

二人はドラマで夫婦役を演じており、その出会いから3年後には実際に結婚しました。

1982年12月、ハワイのカウアイ島で挙式を行い、水谷さんは30歳、ミッキーさんは23歳でした。

のびお
水谷豊さんは人生の絶頂期じゃない、ドラマ、歌、結婚がすべて順調だものね!30代はどうなんだろう?

水谷豊若い頃【30代】「ほとんど仕事がなかった」と言うが⁉

水谷豊さんは、「30代の時、全然仕事がなかった」と、相棒4代目の反町隆史さんとの対談で語っています。

反町 水谷さんの「30代の時、全然仕事がなかった」という言葉も、すごく印象に残っています。僕、30代は自分で自分を持て余していて、答えが出ないまま40代に入ってしまったんですよ。だから、その言葉を聞いた時、『水谷さんですらそうだったんだ』と、心が救われました。

水谷 30代は、ちょっと中途半端な年代なんだろうね。そこをどう過ごすかで、次に行かれるかどうかが変わってくる。

出典元:GOETHE

しかし、実際は仕事がないというより、ミッキー・マッケンジーさんのために、日本とアメリカで半年ずつ暮らすという生活をしていたようです。

結婚後、僕はテレビ番組を抱えていたので半年は日本にいたけど、残りの時間はアメリカへ行くという生活を続けたんですね。

彼女が向こうで映画に出演したときもあるし。

アメリカで暮らすといっても暇だから、試験を受けてUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)に通ったりしていたんです。

出典元:水谷豊自伝

以下は、1982年からの水谷豊さんの出演作です。

「あんちゃん」(日本テレビ系列、1982年~1983年)

女子プロレスのマネージャー兼トレーナーの田野中一徹が、父の急死をきっかけに郷里である宇佐木町に戻り、家業の住職を継ぎ一人前の住職として成長してゆく姿を描くドラマでした。

主演の水谷豊さんは、この共演がきっかけで、伊藤蘭さんと1989年1月に結婚した。

伊藤蘭さんは「あんちゃん」で共演した水谷豊さんについて、

当時を振り返って次のように語っています。

主人とは『あんちゃん』という連続ドラマの兄妹役で共演したのですけど、最初の印象は、良い人だなぁ、すごい役者さんだなぁて。

ただ、当時の彼は結婚したばかりでしたので恋愛の対象にはならなかったですね。私、家庭のある人っていうのは絶対にイヤなんです。よくあるドロドロした騒動がダメで。だからあくまでいい共演者、いいお友達で終わったかもしれないんですけど、たまたまむこうが離婚しましたので・・・。

出典元:水谷豊自伝

「事件記者チャボ」(日本テレビ系列、1983年~1984年)

あらすじを解説しますね。

中山一太(チャボ)は、東和日報松山支局から亡き父の友人である鬼丸キャップに引き抜かれ、警視庁記者クラブに転勤となりました。

鬼丸キャップの家に下宿し、持ち前の正義感で難事件怪事件の解決にあたります。

プライベートでは記者クラブの女性記者・一之江ツル(ツル先輩)に一目ぼれするが、彼女は幼い娘を持つ未亡人であった。

松山には大きな家が残されているが肉親はすでになく、乳母であるトラが留守を守っています。

中山一太は、トラにはこまめに「おばあちゃん」で始まる手紙を書いて、自分の近況を伝えていました。

「逃がれの街」(工藤栄一監督、1983年)

平凡な毎日を送っていた男が、トラブルに巻き込まれて自らも狂気を抱いていく姿を描いています。

仲間を殴ってバイトをやめた幸二はヤクザ2人を殺し、軽井沢に行き着く。

1983年、東宝で映画化された。監督工藤栄一、主演水谷豊。

「気分は名探偵」(日本テレビ系列、1984年~1985年)

思わぬきっかけで探偵事務所で働くことになった主人公の夢野圭介(水谷豊)は、事務所所長の吉原聖子や元刑事の津村浩三らと、次々に起こる事件に巻き込まれていく

チョッピー
水谷豊さん30代に入ってもいい仕事してるね。でも私生活に波乱がおこったみたい!

結婚から3年後には、二人の間に、どうにも埋められない溝を感じるようになった。

彼女は日本で暮らしていく気持ちはなかったし、僕もずっといられるわけではない。

最終的に、この結婚生活はもう無理だ、これ以上続けられないという結論を出しました。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんとミッキー・マッケンジーさんは1986年に離婚しました。

その後、水谷さんは1年半ほどほとんど仕事をしていなかったんです。

そんな時、「休んでないで仕事しろよ」と声をかけてくれたのは、日本テレビのプロデューサーでした。

このプロデューサーは、水谷さんが18歳で家出して戻った時に「いい役があるんだけど」と声をかけてくれた恩人でもあります。

「それで企画されたのが火曜サスペンス劇場の『浅見光彦ミステリー』(38~90年)で、僕 にとって初めての2時間ドラマでした。ルポライターの浅見光彦が、毎回殺人事件を解決し ていく話です。

光彦の実兄が警察庁刑事局長という設定でね。小坂さんは、「これは必ず、 年に2回撮るとかのレギュラー番組にするから」と約束してくれて、その通りになりました。 あのときの演技が、「相棒」の杉下右京のベースになったと思いますね」

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは30代の中頃は一番中途半端な年代だったと語っています。

 「若いときに売れたとすると、それはまさに若いかられたわけですね。

20代は若くて可能 性があるから、失敗してもまた冒険ができる。だけど、30代はまだ自分の中には若さが ているのに、そういう役は回ってこない。

しかも上には40代、50代の俳優たちがいると いう、すごく中途時間を一度過ごさなきゃいけない。若者でも大人でもない間をど う過ごすかで、先が決まるんです。

そこで終わってしまう人もいるんです。 水谷の場合は「あまりジタバタしなかった」と言う。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんの30代には、気にかけてくれるプロデューサーのおかげで、日本テレビ系列の番組に出演することができました。

出演作には次のようなドラマががありました。

「ハローグッバイ」(1989年)

銀座を管轄とする銀座警察署(架空)の刑事課に設けられた分室を舞台に、同期のキャリア警察官3人を中心とした刑事たちの活躍を描くドラマでした。

「地方記者・立花陽介」1993年~2003年)

東洋新聞の記者、立花陽介は結婚後、全国各地の地方通信局を妻と一緒に転々としていました。

地方通信局は記者が一人だけ配属され、家族と一緒に住むことができる局舎なんです。

立花陽介は、新しい赴任先で毎回事件に巻き込まれる、そんなドラマでした。

「事件記者・三上雄太」(2004年~2005年)

事件記者・三上雄太』(じけんきしゃ・みかみゆうた)は、日本テレビ系の「火曜サスペンス劇場」にて放送していたシリーズのひとつです。

2004年から2005年にかけて全3作品が製作されました。

常に気にかけてくれるプロデューサーが身近にいたおかげで、水谷さんは中途半端な時期を乗り越え、大人の俳優へと成長していきました。

「ずっと後のことですが、小坂さんは、『プロデューサー人生の中で自分は一つ失敗をした。それは水谷豊を好きになったことだ。俳優を好きになれば、冷静な判断ができなくなるから駄目なんだ』と仰ったんです。僕の大切な恩人ですね」

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんの俳優としての30代後半は、中途半端で難しい時期でしたが、新たに交際を考える女性に出会いました。

それは、「あんちゃん」や「事件記者チャボ!」で共演した伊藤蘭さんです。

約2年半の交際を経て、水谷が伊藤との結婚を決めたのは、88年11月。この間、マスコミが二人の親密さを書きたて、すでに同棲しているとの記事まで出回った。

出典元:水谷豊自伝

この時、水谷豊さんは37歳になっていました。

まさかこの年に、親友・松田優作さんとの別れが待っているとは考えもしなかったでしょう。

水谷豊と松田優作との思い出

松田優作さんが亡くなったのが40歳でした。

水谷豊さんが37歳で、当時の出来事を次のように語っています。

松田優作さんが膀胱ガンの治療のため、都内の病院に入院したのは88年9月でした。

電話で優作ちゃんは、『膀胱になにかができているらしいけど、大丈夫だから』といっていた。

実は僕にも、ときどき血尿の症状があって、そのことは優作ちゃんに話していたのね。

それで、お見舞いに行ったとき、優作ちゃんから『病院に来たついでに、豊も調べてもらえよ』と言われて、検査することになった。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんの検査結果は、初期の膀胱ガンで手術が必要でした。

手術のために入院することになります。

松田優作さんが退院し、代わりに水谷豊さんが入院することになりました。

水谷豊は膀胱ガンは公表せず手術

水谷豊さんは自分の病気のことは一切公表せず、手術を行いました。

ガンという病名が、仕事に与える影響が大きすぎると考えた結果だそうです。

当時のことを懐かしく話しています。

僕が手術入院している間に優作ちゃんが退院して、今度は優作ちゃんが僕のお見舞いに来てね。

二人で病院のトイレに隠れて煙草を吸ったり、屋上のベンチで差し入れのコーヒーを飲みながら色々な話をしたのよ。

とにかく、楽しい話をした記憶しかない。あれは二人だけの秘密というか、とても密度の濃い時間だった。

出典元:水谷豊自伝

手術のあとは、毎月抗がん剤を入れて、飲み薬で治療をしていたそうです。

その後、水谷豊さんが検査入院しているときに、松田優作が救急車で運ばれてきます。

ブラック・レイン(89年)の撮影が終了したあとで、急激に症状が悪化したのだとか。

松田優作さん膀胱ガンは末期症状になっていたようです。

優作さんは絶対に手術をしないで治すと言っていて、水谷豊さんも必ず治るものと思っていたようです。

松田優作逝去!親友との突然の別れに号泣!

水谷豊さんは、松田優作さんが入院した直後に、奥さんの伊藤蘭さんと一緒にお見舞いに行きました。そして、10月の終わりにはニューヨークへ新婚旅行に出かけました。

二人がニューヨークから帰国したのは11月4日で、翌日に松田優作さんが亡くなったことを知ったそうです。

優作ちゃんも僕も、きっと治ると信じていたのに、、死ぬなんて、本人は最後まで考えていなかったと思う。

もし、優作ちゃんが(自分に残された)時間がないことを知っていたら、あんなに笑わないよね。病院で別れるときも、次の仕事の話をしていたんだから。

出典元:水谷豊自伝

葬儀が終わり、最後の別れの時に、水谷豊さんは棺に横たわる親友に覆いかぶさり、大声で泣き叫んだそうです!それほどつらい別れでした。

松田優作さんの逝去は大きなニュースになりました。特に「ブラックレイン」が好評で、これから海外で活躍すると思われていたので、衝撃は大きかったのです。

松田優作さんは、コミカルな演技からハードアクションやシリアスな演技まで幅広くこなし、もし今も生きていたらハリウッド映画でも活躍していたかもしれません。

そんな生涯の友、松田優作さんの死に打ちのめされた水谷豊さんでしたが、その後、長女が誕生しました。

誕生日が優作ちゃんと同じ9月21日でね、偶然だろうけど、あれはビックリした。

出典元:水谷豊自伝

子供が生まれてから、水谷豊さんはプライベートを大切にするようになりました。

そのため、1990年から1999年にかけて、ほとんど紙媒体の取材を受けていなかったようです

「自分では意識していなかったけど、もし記事が少ないとしたら、当時は娘のこともあったので、あまり私生活に触れられたくない気持ちが強かったのかもしれません。

出典元:水谷豊自伝

いつでも俳優を辞めようと思っていた水谷さんは、娘さんの誕生で、できるだけ長く俳優を続けようと思い始めました。

娘が生まれて、自然にそういう気持ちになったんですよ。自分が選ぶというより、オファがあってこその仕事だから、一生やるとまでは言い切れないけどね。

出典元:水谷豊自伝

のびお
やはり、子供ができるとかわるよ。そんな娘さんも今ではNHKの朝ドラ「ブギウギ」で主演やった!

水谷豊さんは娘ができたことで、仕事への熱量も変わってきました。

1990年春、日本テレビの「水曜グランドロマン」の2時間枠で「愛のミチコ」に出演しました。

この作品は、「熱中時代」や「オレの愛妻物語」と同じく田中知乙監督、布施博一さんの脚本です。

ドキュメンタリー監督の西江孝之さんが書いた本を原作にし、夫婦の実話を描いたドラマでした。

ドラマ「愛のミチコ」は、半身不随と失語症になった妻と、言葉を取り戻させようとする夫の物語です。

出演者には水谷豊さんや樋口可南子さんがおり、主題歌は今井美樹さんの「瞳がほほえむから」でした、水谷さんは共演した樋口可南子さんについて語っています

「素晴らしい俳優であることの条件の一つは、いい空気をまとっていること。

それは台詞を喋る以前のことで、作ろうと思っても作ることができないものです。

最もいい空気であることが条件ですが、まさに樋口可南子さんがそうでした。

樋口さんの芝居はどこにも無理のない自然なものでしたし、普段の彼女も自然な振る舞いで、一緒に居て心地の良い方でした。 多くの方が共演を望んでいたのも分かります」

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは、30代は仕事がなかったと言いながらも、良いドラマに恵まれ、伊藤蘭さんとの再婚、そして娘の誕生で、いよいよ40代に入っていきます。

水谷豊:40代の出演作品「刑事貴族2」「探偵 左文字進」「相棒」

「刑事貴族」シーズン1(90年)は舘ひろしさんが16話まで主演でした。17話から37話までを郷ひろみさんが主演で放映されました。

視聴率が良かったので、シーズン2の作成になったようです。

水谷豊さんは、「刑事貴族」シーズン2(1991年)から主演を務め、視聴率は15%と好調でした。

このドラマのキャストには、松方弘樹さん、地井武男さん、寺脇康文さん、高樹沙耶さんなどが出演していました。

そして、後に「相棒」で一緒になる寺脇康文さんともこのドラマで初共演しています。

新しいレギュラーに決まった寺脇康文との顔合わせは、都内の、とあるしゃぶしゃぶやさんでした。

プロデューサーが3人、役者陣は僕の他にレギュラーの地井武夫さん、鳥越マリさん、田中実、宍戸開が参加しました。

寺脇は新入りなので、遅れてはいけないと思い、集合時間より早く来ていたようです。僕が部屋に入り席に着いたところで、寺脇が緊張の面持ちで近寄ってきて正座し、『寺脇と申す者でございます』と頭を下げました。

まるで時代劇のような言葉遣いに、僕は少し吹き出してしまいました。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
この二人が将来「相棒」というドラマで共演するとは不思議な縁ですね。アッ高樹沙耶さんも「相棒」の初代おかみ役だった!

40代に入り、「相棒」がスタートする48歳まで、着実にいい仕事をやっていってますね。

地方記者・立花陽介」シリーズ(93年~2003年)全20回放映

30代から続いているシリーズが、40代に入っても続いていました。

「探偵 左文字進」(TBS系99~2013年)全16回

左文字進- 水谷豊主人公。元弁護士の私立探偵。

愛車はホワイトのオースチン・ミニ・クーパーS(その後、現行型に変わっている)。

史子・霧子に協力してもらい特殊メイクで別人に変装して、事件関係者からより詳しい事実を聞き出す設定です。

シリーズ後半は女装することが多かった。

探偵事務所」(テレビ朝日系94年~99年)全5回

時の王様」(NHK96年)全4回

96年の『時の王様』は北海道小樽市が舞台のドラマだった。

「NHK札幌では18年ぶりのドラマ制作と聞きました。演出家は、これまでドラマを撮ったことがない若い人でしたが、その熱心なオファーに心動かされて、札幌へ行く決心をしました。

僕の役は奥さんに駆け落ちされてひとり身になった時計屋の松村清志。生活に刺激を求めることもなく、飼っている亀のゆっくりしたリズムに共鳴したかのように、ひたすら穏やかに日々を送っている主人公です。

全4話のエピソードで、なんらかの問題を抱えているお客さんたちとのちょっとした触れ合いが描かれています。

ファンタジーの要素もあるドラマでしたね。2年前の「聖夜の逃亡者」もそうですが、僕は人の心の機敏を感じさせる、いい仕事に恵まれていますねぇ。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
水谷豊さんは、40代に入ってもいい仕事してるね。こんな役者さん珍しい!

歌手のマネージャー役でも、ドラマ出演しています。

「演歌・唱太郎の人情事件日誌」(TBS系96~97)全3回

「唱太郎は、かつてデビューしたけど鳴かず飛ばずの一発屋。

自分の思いを浅田美代子さん が演じる演歌歌手の神崎あかねに託して、二人でドサ回りをする人情コメディです。

あかね と唱太郎の掛け合いは可笑しいけれどほのぼのとしていて、浅田さんはアドリブの芝居にも すぐに対応してくれました。

彼女は普段から全く自分を塗り固めていないというか、自然体 の方でした。三本で終わりましたが、現場はいつも明るかったですね」

出典元:水谷豊自伝

これ以外は単発の仕事で、1年に2~3本のドラマ出演で終わった年もあったようです。

94年~98年の5年間を、「水谷豊不遇の時代」とマスコミの心無い呼び方にも「地味だけど、いい仕事に恵まれたいた」と語っています。

出典元:水谷豊自伝

のびお
マスコミは好き勝手に言うよね!

そして、「相棒」の前哨戦ともいえるドラマが「探偵 左文字進」です。

99年から2013年までの15年間で16話が放映されました。

この頃「相棒」の企画がじわじわと進んでいたようです。

テレビ朝日で「相棒」の企画が進行!

「探偵 左文字進」の時期に、水谷豊さんの次回作がテレビ朝日で企画されていました。

この企画は、『土曜ワイド劇場』の2時間枠で推理サスペンスを制作するというものでした。

しかし、脚本が完成するまでに1年待たなければならなかったようです。

脚本が完成するまで1年かかったのは、プロデューサー全員が推薦した脚本家の輿水康弘が、他局の仕事で多忙を極めていたからだった。

「僕に1年あまり待てるかどうかの打診もありましたが、推理サスペンスをあえてホームド ラマが得意な脚本家で作る、という発想が面白いと思いました。

また、その頃の輿水さんは 日本テレビの演出家・水田伸生と組んで仕事をしていて、水田は小坂敬プロデューサーの愛 弟子だったことから、僕とは若い頃からプライベートで付き合いのある人物でした。

素晴ら しい才能の持ち主である水田が気に入って付き合っていること。

これが、輿水さんを1年あ まり待つ価値があると思わせてくれる大きな要素になりました」 さらに水谷は、番組が放映される時期にも意味を感じていた。 「 撮影開始は1999年で、放映は2000年になります。

成功するかどうかはやってみな ければ分かりませんけど、ミレニアムを迎えた年の一本目の作品が「相棒」であることに対して、なにかが起きそうな予感を覚えていました。

出典元:水谷豊自伝

1年後に撮影が始まった時には、水谷豊さんは47歳になっていました。

届いた脚本を読んだときには興奮したと言います。

「刑事ものとしてこんな本があるのかと驚いたし、とにかく面白かった。」

杉下右京の人物造形については、脚本を読んだ段階でイメージが浮かんできたという。

「『あの人、ちょっと嫌味な人ね』とか『冷たい感じ』とか、あまり人に好かれないタイプにしようと決めました。むしろ嫌われるキャラクターを意識的に創った。なぜ、彼がそんなふうになったのかは、時間をかけてわかってもらえればいいと」

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
これが今の「相棒」のはじまりなんだ!

水谷豊さんと共演する相棒を決めるときには、「刑事貴族」で共演した、寺脇康文さんをプロデューサー全員が候補に挙げたそうです。

「相棒を誰にしようか、キャスティングをプロデューサーたちと話したときに、全員が寺脇康文を候補にあげてくれたんですね。寺脇とは「刑事貴族」で楽しく仕事をした経験があるし、僕はもちろんOKなので、すんなりきまりました。

出典元:水谷豊自伝

のびお
いよいよ「相棒」の登場だね、寺脇康文さんとは共演済みだったので、相棒がスタートしたときも、息がピッタリだったんだな。

 第1話が放映された翌週、テレ朝の上層部から『あれをシリーズにしてくれないか」とい り紙があったんです。ただ、僕としては、2時間ドラマの世界をもう少し試したい気持ちが あったので、シリーズ化の前に2時間枠で何本か作らせてほしいとお願いした」 第1話の視聴率は17.7%。テレビ朝日に限らず、2時間ドラマが全体的に低迷している 時期としては異例の高視聴率だった。

第二話が「恐怖の切り裂き魔連続殺人」視聴率22% 第三話「大学病院助教授、墜落殺人事件」視聴率17.4%を記録しました。

出典元:水谷豊自伝

2時間ドラマ「相棒」プレシーズンの第1話から第3話は視聴率が好調で、成功を確信したそうです。

いよいよ「相棒」シーズン1が2002年春に撮影スタートすることになりました。

相棒の多くの作品に関わる、和泉監督が56歳、水谷豊さんは50歳になる年でした

水谷豊50代:相棒シーズン1がスタート

いよいよ相棒シーズン1がスタートしました。

2002にスタートした「相棒シーズン1」そして今は「相棒シーズン22」まできました。

まさかこんなに続くとは、当初は思っていなかったのでは?それとも大ヒットする自信があったのでしょうか。

これはヒットすると思いましたね。まずはプロデューサー、次に脚本、監督、そして役者。

このうちの二つが揃えばとりあえずドラマができる。三つ揃えばヒットする。四つ揃ったら大ヒットすると、昔から思っていたんです。だけど、揃えたつもりでも、現実はそうなっていなことが多いんです。四つのうち、どれかが欠けていたりする。それが「相棒」ではすべて揃った。シリーズ化が決定する前に、揃ったぞ!という感覚がありました。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さん、「相棒」は大ヒットすると確信していたようですね。

相棒は出演するキャラクターがそれぞれ個性があり、観ていて飽きが来ないんです。

水谷豊さんは「杉下右京」をちょっとヒンシュクをかうキャラクターに設定しました。

相棒、亀山薫役の寺脇康文さんも、杉下右京のことを次のように語っています。

最初、薫にとって右京さんは、『全然わかんねえや』という人だったけど、付き合ううちに、右京さんに『(一緒に捜査するのは君の他に)誰がいるんですか』と言われて、俺も薫の気持ちになって『わー嬉しい』と思ったりして。薫は俺の分身で、今では俺が薫だという思いもある。

出典元:水谷豊自伝

のびお
水谷豊さんは最初から「相棒」はヒットすると確信していたんだ!ヒット作品に多数出演していたので、肌感覚でわかっていたんだね。

水谷豊さんの50代は「相棒」が中心であったようです。

相棒シーズン5撮影中に劇場版のニュースが!

相棒シーズン5の撮影が始まっているときに、劇場版のニュースが入ってきたそうです。

「相棒」を映画にするという夢が、現実のものになった瞬間でした。

寺脇とは、いつか「相棒」を映画にしよう、と話していたんです。それで、映画になるまではシーズンを引っ張ろうと思っていた。和泉監督もやりたがっていたし、実現したのが、1作目になる「絶体絶命!42.195km東京ビックシティマラソン」ですね。

出典元:水谷豊自伝

のびお
いよいよ相棒も映画化されたんだ!待ちに待った感じだね

劇場版の上映は時系列に解説していきます。

『相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』

2008年5月1日に公開されました。特命係の杉下右京と亀山薫が、都内で同一犯による不可解な連続殺人事件を解決します。

『相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿』

2009年3月28日に公開されました。鑑識課員・米沢守が主人公のスピンオフ・ムービーで、彼が大活躍します。

『相棒 -劇場版Ⅱ- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜』

2010年12月23日に公開されました。特命係の杉下右京と神戸尊が、警察組織に渦巻く恐るべき陰謀に立ち向かいます。

『相棒シリーズ X DAY』

2013年3月23日に公開されました。捜査一課のリーダー的存在の伊丹憲一と、シリーズ初登場となるサイバー犯罪対策課捜査官の岩月彬が主人公のスピンオフ・ムービーです。

『相棒シリーズ X DAY』の時には水谷豊さんは60歳になっていました。

『相棒 -劇場版Ⅲ- 巨大密室! 特命係 絶海の孤島へ』

2014年4月26日に公開されました。特命係の杉下右京と甲斐享が、太平洋に浮かぶ孤島で起きた死亡事故を解決します。

『相棒 -劇場版Ⅳ- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断』

2017年2月11日に公開されました。特命係の杉下右京と冠城亘が、謎の国際犯罪組織に挑みます。

それぞれの映画は、ドラマ「相棒」の世界観を引き継ぎつつ、より大規模な事件や複雑な陰謀を描いています。

チョッピー
相棒劇場版も6話まで上映されたんだね、相棒の亀山薫、神戸尊、甲斐享、冠城亘が劇場版でも活躍してる!
のびお
そうだね、スピンオフで鑑識課員・米沢守が主人公だったり、捜査一課のリーダー的存在の伊丹憲一が出ているのもいいね!

水谷豊60代:監督として映画を3本撮影

水谷豊さんが60代で監督した映画はつぎの3作品があります。

『TAP THE LAST SHOW』

この映画は2017年5月14日に公開されました。水谷豊さんが監督を務め、主演も兼ねています。この作品は水谷豊さんが40年間温めてきたストーリーを、自らのメガホンで映画化した初監督作となります。

始まりは23歳で海外旅行をしたとき、西海岸で観たサンディ・ダンカンの舞台劇「ピーターパン」ですね。あの時の感動をお客さんに伝えられるような作品を作りたいと思い続けてきた。

最初に考えていたのは、タップダンスをテーマにした別のスートリーでう。自分がタップを踊るつもりで、40代までレッスンを続けていました。

だが50代に入っても企画がは成立せず、体力的に自分がタップを踊るのは無理だとあきらめかけたんです。

出典元:水谷豊自伝

この映画の企画が動き始めたのは、2015年の春だそうです。

水谷豊さんは60代に入っていました。

演技が未経験の本物のダンサーを起用し、演技をつけながら撮ったそうです。

『轢き逃げ 最高の最悪な日』

この映画は2019年5月10日に公開されました。水谷豊さんが監督を務め、脚本を書き、時山光央役として出演もしています。

この作品では、水谷豊さんは一人娘をひき逃げされ、生きがいを失った父親を演じています。

グレイヘアに無精ひげをはやした姿が、喪失感をきわだたせていました。

妻の役を檀ふみちゃんにお願いして出てもらったんです。ふみちゃんと最初に仕事をしたのは彼女が大学生のときで、そのころからのお付き合いだから気心が知れているし、しっしょに仕事をしていると楽しいんです。娘をなくしたあと気丈にふるまっていたけど、最後には崩れてしまうというシーンで、僕の想像を上回る芝居をしてくれました。

もう一人、事件をっ捜査する刑事の役を岸部一徳さんにお願いしました。一徳さんをイメージして当て書きした役だから、どうしても引き受けてもらわなくてはいけませんでした。

出典元:水谷豊自伝

太陽とボレロ』:22年6月公開

この作品が公開されたときは、水谷豊さんは69歳になっていました。

60代で映画を三作撮るという決意は何とか間に合いました。

クラッシックのオーケストラを舞台にして、その人間模様を描きました。地方のアマチュアの交響楽団です。18年の歴史がある楽団だけど、年々客足が遠のいているので、運営がきびしい。ついには解散を決意するほど追い詰められた人たちに、思いがけない奇跡が起きる。

ちょっとしたジャパニーズドリームを見せようと思ったんです。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
水谷豊さん60代で映画を3本とるという目標も達成したんだね。
のびお
そうだね、「相棒」をやりながら監督として映画を3本撮影!充実した60代じゃないか。

いよいよ水田豊さん、70代の今を迎えます。

このときの心境を次のように語っています。

60代で監督作品を三本撮りたい。60代半ばでそんな無謀なことを思い、まさか実現するとは思っていませんでしたが、そんな無謀なことがかなってしまいました。70代になった今、一番の興味は、自分がどこへ向かおうとしているのかということです。今年は「相棒」のシリーズや舞台など具体的に抱えている仕事はありますが、それとは別の空間が僕の中にはあります。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊70代:いま進めている作品と未来への夢について

古希を迎えた水谷豊さん、「相棒」も終わりに近づいてきています。

反町隆史が相棒を去る決意をし、決定したときに、「相棒」が終わるときは亀山薫が復帰するときだと語っていました。

ソリの結論が出たと同時に、次の相棒を誰にするかという話になるんだけど、僕の中ではずっと、この番組が終わるころには亀山がもう一回来るぞ、というイメージがあったんですよ。

プロデューサーのみなさんも、そういうことが起きたらいいな、と考えていることが分かった。

だから、相棒は四代目までで、五代目はいらないと思っていました。

出典元:水谷豊自伝

チョッピー
水谷豊さん、71歳だ。相棒もそろそろ終わりに近づいてきているんだね、なんかさみしいね
のびお
そうだね、あと何シーズンやってくれるのかな、今年で72歳だから終わりが近いのも確かだね!それまでは「相棒」を毎週みていくつもりだょ!

「相棒」はあと何年続くかわかりませんが、水田豊さんはこの先にやってみたいのはプロデューサーだそうです。

もう一つ、この先にやってみたいのはプロデューサーです。組織に所属していれば別ですが、そうではないフリーランスのプロデューサーになれば、自分でお金を集めなければなりません。

責任も含めて大変なことですが、好きな作品を作るために、そして後に続く若い人たちのために、そんな世界を作っていけたらと思っています。

出典元:水谷豊自伝

水谷豊さんは若い頃は役者なんかすぐに辞めるつもりでいました。

しかし周りがそれを許さずに、20代、30代、40代と俳優のキャリアを積んで、50歳で相棒シーズン1がスタートしました。

そして、22年たった今は72歳になろうとしています。

そんな、水谷豊さんの思いは、つねに未来へ向かっています。

まとめ

水谷豊さんは俳優、歌手、映画監督、で長いキャリアを持っています、子役から始まり波乱万丈の人生を歩んできました。

水谷さんの「若い頃から今!」いかがでしたでしょうか?

衰えをしらず、未来に向かって夢を追い続けている姿は魅力的ですね。

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